2024年11月国家資格試験スタート!注目の"日本語教員" 自分らしく活きる年齢不詳?の日本語教師|人生100年時代のライフシフト
- 100年時代のライフデザイン
- 公開日:2024年12月10日
大手精密機器会社で40年余、定年延長の期限まであと1年。全く向き合ってこなかった“この先の自身のキャリア”。貯えも十分ではなく「最低でも10年は働きたい!」と考える私の“この先“に向けて、背中を押したのは妻からの情報提供でした。
この記事の目次
PROFILE
西畑 利一郎 (にしはた りいちろう)
・兵庫県出身 埼玉県松伏町在住 関西学院大学文学部卒
・大手精密機器会社に定年迄勤務。雇用延長の期限も迫る中、日本語教師養成講座に挑戦。
・日本語教師生活10年目。自ら創意工夫を続ける講義。
広がり続ける卒業生達との交流を通じ、若返り続ける年齢不詳の西畑さん。2024年11月に初の国家資格試験がスタート!今、注目の日本語教師。
大学を選んだのは自転車で通えるから、会社を選んだのは教員志望への挫折
私の大学生時代は、学生運動の嵐が過ぎた、ちょっとのんびりした時代。自宅から自転車で通えることを理由に選んだ大学。中学生の時の憧れの英語の女性先生への想いで続けてきたNHKのラジオ英語講座の腕試しで、休日は奈良や京都での外国人観光客相手のガイドを始め、アルバイトに精を出して過ごした4年間でした。
英語の教師を目指したものの単位不足で挫折。就活では、できれば英語を活かせる仕事をと活動したものの、志望した総合商社をはじめとしたいくつかの会社も、当時は"文学部男子"というだけで悉くはじかれてしまいました。
唯一内定をいただいたのが、メーカーと販売部門が共存していた精密機器メーカーでした。人事の方との相性がよく、教師をあきらめた私は、文系の人間は営業やるしかないよな、くらいの気持ちで選択しました。
初めての首都圏での生活、営業、そして結婚、海外勤務へ
入社して初めて、実家を離れて関東へ。競合ひしめく中での営業活動は、不安はありましたが、幸い担当させて頂いた顧客の企業グループにも恵まれて、業績は順調に推移しました。自分なりにも頑張ったと思います。いつも歩き過ぎで、ズボンの股のところが擦り切れてスケスケになっていた事をお覚えています。
一方で、入社後も極力英語との接点は持つようにしていました。ラジオ講座はずっと続けていましたし、毎週土曜日には川崎のアパートの近所で開催されていた、英語サークルにも通っていました。実は、妻とはそのサークルで出会ったんですよね。社宅を出てアパート暮らしを始めた頃、偶然通っていた銭湯も同じで、銭湯で顔を合わせるようになり、少しずつ意気投合。いつしか一緒に暮らすようになり、結婚しました。"神田川♪"みたいな世界ですよね。(笑)
入社して5年くらい経って、上司との今でいうキャリア面談のような機会があり、そこでダメもとで「英語が活かせる仕事がしたい」と申し出たら、意外にもすんなり通り、メーカーのマーケティング部門に配置換えになりました。マーケティング部門は当時、海外からのお客様を饗すパーティー等の開催が盛んで、ディーラーさんやメディアの方々の対応を担当していました。毎週のように社長主催のパーティーを開催していた、華やかな時代でした。
そんな生活を続ける中、突然の人事発令「パナマ赴任」でした。後日聞いた話ですが、本来決まっていた人が政情不安の南米行きを固辞し、急遽私にお鉢が回ってきたようです。次女が生まれたばかりの妻の反応が心配でしたが、寧ろ、職場でスペイン語を使っていた妻にとっては「実践の機会が楽しみ」と気持ちよく帯同を決めてくれました。ありがたかったですよね。
パナマの首都、パナマシティに赴任したのは8月。雨季でした。当時の日本では体験したことのない物凄い雨量で、溢れ出した雨で道路のマンホールが流されて、空いた穴を避けながら車を走らせないといけないような状況には驚きました。また、治安も最悪で、私も実際にドロボーに入られて、金目の家財道具一式を盗難にあう体験もしました。
初めての海外生活。当初は戸惑いもありましたが、妻のスペイン語にも助けられ、思った以上に子供たちは現地に適応し、伸び伸びと育ち3人目の子供も現地で生まれました。現地の方々はとても暖かく、家族ぐるみのお付き合いで友達も沢山できました。私にとって中南米での異文化生活はその後の大変貴重な体験となりました。
帰国後の唯一の楽しみは、昼休みのサークル活動
3番目の子供が小学校に上がる頃、7年間のパナマ赴任を終え帰国しました。帰国後はビデオ事業部の事業企画や、マーケティング本部で統計資料を作成する様な仕事を担いました。現場でチームの仲間たちと一緒にやる仕事が楽しくて、管理職にも昇進にも正直関心がなかったですね。帰国後の私にとって、仕事は正直家族の生活を支える手段になっていました。
むしろ私の楽しみは、毎日昼休みに自分で開催した"スペイン語講座"でした。たまたま世間話の流れで始まった"スペイン語講座"のサークル。勿論ボランティアです。私自身、折角パナマ駐在で身に着けたスペイン語を忘れたくなかったし、派遣スタッフさんや女性社員等2,3名で始まった講座は徐々に人数が拡大、結局退職まで13年間も続きました。卒業生も27名を数え、退職して10年たった今でも、その仲間で年に2回位集まって飲み会やっています。
本当にやりたかった仕事に気づけたキッカケは、妻からの情報提供
そうこうしている内に迎えた60歳では、迷わず継続雇用を選択。そして64歳、定年延長終了迄あと1年。現役の時から、自身のキャリアについてまともに考えてこなかった自分。いよいよ決断を迫られる時期に差し掛かり、思い描いたのは、定年超えても愚直に70歳まで地元の鉄工所で働き続けていた父の後ろ姿でした。そんな父の影響もあり、自分もただ漠然とあと10年くらいは働きたいとは思っていました。
それでも、特に具体的な行動には移すことなく、これまでと同じ生活をのんびり続けていたある日「こんな仕事があるみたいよ」と、妻から渡された新聞の広告。日本語教師の養成講座の生徒募集の広告でした。ようやく私も目が覚めた思いでした。それを機会に「私は何がしたいのだろう」と真剣に考えるようになりました。
思えば中学生で英語教師に憧れて、教師を目指したもの単位が足りず挫折した学生時代。13年間続けた"スペイン語講座"のサークル活動で参加してくれたメンバーの楽しそうな笑顔。本当に私がやりたかった仕事は、"実は教師という仕事だ"ということに改めて気づくキッカケになりました。
"日本語"と向き合う。新鮮で刺激的な学びの時間
早速、日本語教師の講座の情報収集を開始し、週末を利用して3校の学校の説明会に参加しました。定年延長期限までちょうど1年。できればその期間を利用して必要な講習を受講し、定年延長終了後には講師として着任する。そんな私のシナリオに真摯に耳を傾け、意思決定に向けてしっかりと伴走してくれたのが、現在のTCJでした。
久々に学ぶ機会となった1年間の授業は、とても新鮮で刺激的でした。改めて日本語を文法から整理し構造として理解することも、自分の中でこれまで学んできた英語やスペイン語と比較して理解していくことも楽しかったですし、日本語を理解していない人に対し、他国語を一切使うことなく、日本語を理解できるように伝えるという"直接法"はとても新鮮でした。
特に、後々に向けて役に立ったのは"模擬授業"です。生徒役の受講生向けてリアルな授業を実施するために、テキストを基に事前準備をして臨みます。生徒役の反応を確認しながら進行する訳ですが、一人一人の理解度に合わせて、授業を進める難しさを思い知りました。また、様々な生徒に対応するために、テキストの解説を超えて自分なりに、伝え方を工夫する必要性を実感できました。
この学びの1年間、年齢も経験も多様な受講生の皆さんと過ごした時間は、同じ会社一筋だった自分にとって、貴重な体験だと言えます。改めて人にものを伝える事の難しさを実感すると共に、様々な創意工夫により関係性が深まる新たなコミュニケーション手法の習得が、"伝わる喜び"に繋がる本当に刺激的な機会となりました。
お陰様で予定通り、1年間で必要な講習は終了することができました。また、教師としての採用試験も2度目のチャレンジで「中級クラスの講師」として採用されることに決まったのです。
自分なりの創意工夫の取組が、初めて仕事のやりがいの実感に
雇用延長期間が終わり40年を超える前職を勤め上げ、いよいよ中学時代に憧れた教師生活がスタート。研修期間を終え、日本語教師としての挑戦が始まりました。授業独り立ち直後は、緊張した時期もありました。多様な国々から様々な想いで日本語に挑戦している生徒達、原則日本語だけで授業を行う"直接法"での授業。
模擬授業を重ね、事前の研修で準備してきたことを存分に活かし授業を進め、徐々に生徒が理解できた表情に変化していく姿に、日本語教師として駆け出しの私でも僅かながらも手応えを感じることができました。それでも、生徒たちの理解はどうしても差が出ます。日本語能力の差、また、生徒の日々の授業へのモチベーションの状態の変化も、授業の理解に少なからず影響をお及ぼします。
私は授業の時間に留まらず、できるだけその一人一人の想いや今の状況を理解するために、生徒とのコミュニケーションの機会を増やすようにように努めました。生徒達と共に過ごし、コミュニケーションの機会を重ねるに従い、年齢的には私の子供よりも二回りも若い生徒達が、自分の子供のように可愛く思えるようになりました。
日本語教師としての経験を重ねると、徐々に様々なクラスを任せてもらうようになっていきます。授業の内容の難易度も上がり、日本語独特の言い回しを、生徒の状況に合わせて理解を深めるために、より教師に求められるレベルも上がっていきます。より良い授業を行うために、テキストのみに留まらず、自分なりに事前の準備をすることが増えていきました。
また、日本の文化や慣習の理解を促進するソーシャルの授業というプログラムがあります。上位のクラスでは、月に一度今どきの社会的テーマについて、皆で議論する授業です。私の担当するソーシャルの授業では、最新の日経新聞の記事を題材に取り上げることも。日本語の理解を進めると共に、その後の進学や就活にも活かせるようにテーマ設定をすることで、生徒達のその先に少しでも役立ちたい。そんな想いで授業に臨んでいます。
自分なりの創意工夫により、国を超えて様々な文化・習慣の違う生徒達が、独特の日本語の言い回しを含めて、日常会話で普通に使えるレベルに成長していく姿は、日本語教師冥利に尽きると感じるようになりました。正直決められたことをこなしていた、前職ではあまり経験してこなかった、仕事そのものでのやりがいを70歳を超えて体感しています。
「第一希望に合格しました!」待ちに待った嬉しい瞬間
最近は授業のみならず、生徒の進路指導や就活のサポートをする機会も増えました。日本語の授業の更なるレベル向上に加えて、進路指導に必要な世の中のトレンドや最新の情報収集など、仕事の範囲がどんどん広がっていきます。学生の希望をしっかりと把握した上で、学生の能力に応じて適切な進路のアドバイスをすることは難しくもあります。
どうしても高望みしがちな学生に向けて、行き先が無くなってしまうことがないよう、抑えも含めて最低でも3校の学校の受験をするようアドバイスすることも大切にしています。現実的には、お金に余裕のない生徒が多いですから、確実に前に進めるサポートになるように心がけています。
また、面接の指導においては、日本で一般的に求めるマナーの指導はもとより、各々の志望先の特性に応じて、求める人材要件を前提にしています。面接の受け応えのポイントの指導は、これまでの企業経験を活かすことができていると感じています。
授業においても、進路指導においても、私が常に大事にしてきたのは、学生一人一人と真摯に向き合うことです。生活習慣や、環境の違う国々から目的の実現に向けて日本にやってきた生徒達。まだまだ若いからこそ抱える、彼ら・彼女らの抱えている悩みや、直面している壁を理解することを大切にしてきました。
授業や進路指導の面談以外のプライベートの時間で、共に過ごすこともあります。母国を離れ、見ず知らずの土地で頼れる人の居ない人も少ない生徒達。私が少しでも彼らにとって安心できる居場所のような存在になれれば、そんな想いで生徒達と向き合うように心がけています。
それだけに、当校の卒業時に「第一希望の学校に合格した!」という報告を直接聞くときは、本当に嬉しいですよね。お陰様でここ数年は、ほぼ100%の確率で担当した生徒は次のステップに進む事ができています。
日本語教師の仕事は、私の最も大切な居場所に
日本語教師を始めて10年目に入ります。担任として卒業を見送った生徒の数は、200名近くになりました。実は、そんな卒業生の有志達が企画してくれる同窓会に参加することが、私の何よりの楽しみです。これまで、中国、ベトナム、ミャンマーやネパール等々10か国以上の生徒達と接してきました。そんな生徒達が卒業後に様々な道で頑張っています。
今や、先生と生徒の枠を超え、多国籍の仲間として楽しく飲める機会がある。学校当時の思い出話や、近況報告、何気ない世間話で過ごす時間は、私にとっては大切な宝物、かけがえの無い"私の居場所"になっています。「母国を離れ、不安そうな生徒達の居場所になろう。」そう思って接してきた私、今では逆に彼らの存在が、私にとっての居場所になっている。面白いものですね。
できる限り生徒一人一人の日本語習得の想いに寄り添い、伴走してきたつもりです。とはいえ、私の力不足もありまだまだ目的の到達までには至り切れていない卒業生も多く居ます。また、母国の家庭の事情により道半ばで、帰国を余儀なくされる生徒もいます。そんな相談や、報告に接する時には、共に学んだ者として、無念の想いで一杯になります。
それは私にとっては、もっともっと日本語教師として更なる創意工夫を重ね、また、生徒たちの想いを叶えるサポーターとして、自身の成長に向けて心を新たにする機会にもなっています。若い生徒達、卒業生達とそうして接するお蔭で、私はいたって健康。「むしろ以前より若返ったね」と妻からも言われます。
実は、生徒達には私の年齢は不詳、秘密にしています。(笑)肉体的にも、地元埼玉のバトミントンサークル3か所で生徒達に負けないよう、週末の体力作りも頑張っています。人生100年!これからも、今以上に若々しく、80歳までは日本語教師の仕事を続けていければと思っています。