"命"と向き合うことで価値観が変化。生涯のシゴトと出会いました|人生100年時代のライフシフト
- 100年時代のライフデザイン
- 公開日:2024年8月15日
株式会社セノンで警備隊員から警備隊長を経験、そして現在は全社の社員教育を担う小林 英仁さん。前職エンジニアとしての激務から、40代で未経験の警備業への転職を決めた経緯をうかがいました。
この記事の目次
PROFILE
株式会社セノン 小林 英仁(61歳)
茨城県守谷市出身。最初の就職先が突然の倒産。思わぬ転職活動から大手証券系コンサルファームのIT企業に入社。エンジニアとして昼夜を問わず走り続けて10年、自分と向き合い"心身の休息"を求めて警備業へ。警備隊員から警備隊長、そして全社の教育業務へ。「命を守る」ことに生涯を捧げる。
サイモン&ガーファンクル、"取手駅の奇跡"の出逢い、そして倒産
中学2年生。ラジオから流れた、サイモン&ガーファンクルの"明日にかける橋"との衝撃の出会いをキッカケに、それまでサッカー、柔道と大きな体格を期待されてスポーツに取り組みながら、いま一つしっくりこなかった学生生活が一変しました。自らも、姉から借りたギターを片手に、音楽好きの同級生の仲間達とバンドを結成。ブルース系のバンドでベースを奏で続けた、ちょっと大人びた中高時代でした。
高校卒業を控えて進路選択の時、やりたい事が不明なままでの大学進学を拒み、音楽好き・ラジオ好きから、電気電子系の専門学校を選びました。専門学校入学直後に始めた、カセットテープのマスターテープ編集のアルバイト先で社長に気に入られ、専門学校は1年で中退。その会社への入社を決めてしまいました。
当時はカセットテープの全盛の時代。発売前の音源を編集し、レコード会社に納品するため、名だたるミュージシャンの新作音源に誰よりも早く触れる事ができる仕事でした。大好きな音楽に囲まれて、無我夢中で仕事を覚えましたね。最初は音源を編集するクリエーターの仕事でしたが、徐々に営業の先輩と共に、大手のレコード会社やプロダクションとの打合せにも同行する機会も増え、仕事の幅も広がっていきました。
プライベートでも"取手駅の奇跡"ともいえる出来事が起きました。帰宅電車の乗換えの取手駅で、なんと小学校の卒業式以来15年振りの同級生と運命の再会。その出会いをきっかけに交際がスタート、とんとん拍子で話は進み結婚することに。地元の小学校の同級生同士の結婚式に、両家の親族一同はもちろん、地元の仲間たちにも参列いただき、華やかな式を挙げることができました。
そんな中、事件は唐突に訪れました。「社長が行方不明になった、不渡りを出してしまったらしい」朝いつものように出社した私に、先輩から衝撃の報告を聞かされました。真相は最後まで不明なまま、間も無く債権者が事務所に押しかけ、我々従業員は逃げるように会社を後にすることになりました。
28歳。結婚式の主賓の社長挨拶からたった2カ月後の出来事でした。
大手証券系コンサルティングファームで、エンジニアとして再スタート
新婚直後の衝撃の倒産。妻には暫く話しをすることができませんでした。新婚で迎えたクリスマスも初めてのお正月も、何食わぬ顔で過ごす時間、居心地は本当に悪かったですよね。妻の両親にも合わせる顔がなかったです。
正月明けからは、私にとって初めての就活がスタート。とにかく早く次の仕事を決めて、妻にはだけは心配かけたくない、その一心で頑張りました。正直焦りもありました。ところが、次の仕事は拍子抜けするほどあっさりと決めることができたのです。世の中は、バブル崩壊前の好況期、空前の人手不足のタイミングでした。大手証券会社のコンサルティングファーム関連会社に内定をいただきました。今思えば、28歳でIT未経験の私の採用、運が良かったのでしょうね。
私が任された仕事は、会社が受託開発したお客様の情報処理のシステムを、実際にオペレーションする業務。コンピューター未経験の私、当時は導入研修もそこそこに、OJTで必要なスキルの習得が求められました。私が配属されたのは流通最大手のI社の担当チーム。24時間、365日稼働のI社に合わせて、私たちのチームもシフトを組んで当然年中無休でオペレーションする日々が続きました。お客様の大事なデータを扱う緊張感の高い仕事でしたが、チームの先輩方の協力で徐々にスキルも上がり、仕事の幅の広がりを通じて、成長を実感することができました。若かったんでしょうね(笑)
入社して6年、運用管理業務を任されることになりました。運用管理は言わばプロジェクトマネジャーで、オペレーションの管理はもちろん、お客様と現場を繋ぐ重要な仕事です。お客様の事業運営の要となるシステム運用を全面的に任されていますから、当たり前に運用し続けることを要望するお客様に、毎日応え続けるプレッシャーは本当に大きかったです。365日24時間緊張し続ける生活がスタートしました。
とはいえ、システム運用にはトラブルはつきもの。トラブル発生時には、開発と連携した原因の追究、解決策の提示、再発防止策の報告等々、現場とお客様の間に立つ仕事は困難を極めることの連続でした。大きなトラブルでは、修復に10数時間以上を要することもあり、1時間に5回以上かかって来るお客様からの厳しい催促の電話、開発現場担当との調整...お客様と開発現場に挟まれ、システムの完全修復の瞬間まで厳しく詰め寄り続けるお客様に、ただただひたすら頭を下げ続ける1日は、本当に辛かったですね。
責任ある仕事を任されることにやりがいを感じながらも、トラブル発生の連絡があることの緊張感から、休日でも完全に開放されることのない日々が続きました。また、自宅の取手から勤務先の横浜まで片道3時間の通勤時間、ほとんどが日付を超える帰宅時間、朝5時には自宅を出発する毎日に、徐々に心身共に悲鳴を上げ始めました。
40歳を迎えて、迫りくる自身の限界を前に、走り続けた自分自身にピリオドを打ち"休息"を与えることを決めました。お客様の決算業務を無事にやり遂げ、引継ぎを終えた出社最終日には、私にはもう力は残っていなかったですね。「よくぞここまでがんばった!」自分で自分を褒めてあげました。
自分のペースで働きたい私と、警備との新鮮な出会い
退職後、久々に向き合った家族。3人の子供は知らぬ間に成長し、長男は既に中学生。思春期の難しい時期を迎えていました。子育ても家庭も全て一人で背負ってきた妻の苦労を、正直初めて知りました。本当に申し訳ない気持ちで一杯でした。
まだまだ3人の子供の学費も必要な状況で迎えた2度目の転職活動で大事にしたかったのは、前職の様に家庭も心身も犠牲にして仕事に全てを捧げる様な働き方ではなく、無理なく自分のペースでできる仕事を選ぶこと。「正直、少し休息したい」そんな思いで就活に臨みました。しかしながら、前回のバブル期の就活とは状況は一変していました。
40歳という年齢は、社員採用に拘る就活の大きな「壁」となったのです。
そんな中で、40歳を超えた未経験の私にも社員採用の門戸を広げ、何よりシフト勤務が可能な仕事。警備職との出会いは新鮮でしたね。前職でシフト勤務を経験している自分にとって、決められたシフトの時間内に責任をもって自身の役割を果たす警備は「自分のペース、自分のリズム」を大事にしたい私の条件にあった仕事でした。
最初に応募した、自宅近くのセノン茨城支社。「育ち盛りの子供3人を育てるには、今回の当社の募集案件の報酬では厳しい。」と私の生活に寄り添い、無理に入社への動機付けをしない面接官の紳士な姿勢には正直驚きました。直後に、同社の東京中央支社の夜勤を含む募集に迷わず応募しました。再び向き合った若手面接官の人柄からも、この会社の"人に寄り添うことを大切にする空気感"を感じることができました。
前職の半分くらいの報酬になっても、自分のリズムを整えられる「場」はここしかない。いただいた内定に、即座に入社の意思を固めました。
現場の"熱"に"休息気分"は吹き飛び、前職と警備職の共通点を発見!
入社後の5日間の法定研修がスタート。ここでも、面接で感じたセノンの空気感は、変わらず発揮されていました。講師が参加者の我々世代に寄り添い、世代ならではの事件や事例を題材に話を進めてくれました。固いはずの内容も、受講者とキャッチボールしながら進めてくれることで、理解が進み楽しくスタートを切ることができました。
最初の配属は、新宿の高層Mビル。隊長を除いて私と同年齢の隊員は一人だけ、残りのメンバーは全員20代の若いチームでした。驚いたのは、その若いメンバー達の仕事への熱量でした。私の教育担当でサポートしてくれたのも20歳くらい年下のK君。とにかく熱心で、警備業未経験の40歳を超えた私に、本当に真剣に向き合ってくれました。
ビル内の様々なルール、警備上のポイントはもちろん、これまでビル内で起きたトラブル・イレギュラー対応の事例を、具体的に丁寧に教えてくれました。この指導は、その後の私の実践においても大きな財産です。さらに驚いたのは、日々繰り返されるメンバー同士の熱い議論。当時、受託して間もない頃で警備ルールの再構築中だったこともあり、ビル内で起きたイレギュラー事案への対応が「本当にあれで良かったのか?もっといい方法があったのでは?」と、メンバー同士が真剣に議論していました。
教育担当と一緒に行動する導入期間が過ぎた頃には、警備の業務改革に真正面から向き合う彼らの熱量に、私の"休息気分"は早々に吹き飛ばされてしまいましたね。徐々に彼らの熱い討論に参加し、その内容から仕事への理解を深め、彼ら一人一人の話を聴くことで、少しずつ関係構築をしていきました。
その後、彼らと共に様々な「緊急事態」を経験し、業務の全体像が見えてきた頃、実はこの仕事は前職と通ずることがあることに気が付きました。それはどちらも「緊急対応を乗り越える仕事」であるということでした。以前は、コンピューターの緊急事態を救い、トラブル発生を未然に防止する仕事。一方で警備は、"人"の緊急事態を救い、"人"の安全のために日頃から準備し続ける仕事です。実はどちらも同じじゃないか、と思ったのです。
緊急事態への対応のルール、最適な手順は私の体の中にしっかりと残っていました。目から鱗の発見でした。あの苦しかった経験が、この仕事に活かせる!その気付きが、後の様々な創意工夫の取り組みに繋がり、仕事が本当に面白くなりました。"人"は緊急事態に真摯に向き合い適切に対応すれば、その想いに応えて感謝の言葉を返してくれる。コンピューターはどんなに頑張っても、決してお礼を言ってくれませんでしたけどね(笑)
働き方は前職時代とは大きく変わりました。全てを仕事に投じていた前職とは、私自身「時間の意識」も大きく変わっていったと思います。お陰様で年に2回の家族旅行を実現できるようになりました。家族と向き合う大切な時間を過ごせるようになったことは、本当に大きかったですね。
"命"と向き合う事で変化した価値観。防災、救命を極めた15年間
入社から4年、私は隊長に任ぜられ、20名のMビル警備隊員のリーダーを務めることになりました。隊長の業務に慌ただしく追われる中、私にとってその後の警備の仕事の方向性を決める重要な事案が発生しました。
ある日、防災センターに「廊下で男性社員が倒れている」と一報が入りました。「緊急事態」の発生です。班長、隊員2名がAEDを携行し現場急行、即時一次救命処置を開始、男性は心肺停止状態でした。現場より報告を受け、私は119番救急車要請。その直後、現場より「同僚の方から患者の情報が入りました」との無線が入りました。患者の重い病歴に、現場も処置に不安を感じているようでした。
救命の手順ははっきりしています。私は一次救命の継続を指示しました。そしてその後、到着した救急隊員に、男性を引き渡すことができました。適切な応急処置とチームワーク、スピード対応により、この我々の取り組みで消防署から「消防署長感謝状」をいただきました。
我々の仕事は、ビルのオーナー様からビルの警備業務を請負う業務です。真に大切なのは研修時から繰り返し教えられてきた「ビルを利用する全ての方々の"命"を守る仕事だ」ということ。隊長である私の瞬時の判断が人ひとりの"命"をも左右することに繋がるという事実を実感しました。私自身の仕事への価値観が"命"と向き合うことで大きく変化した瞬間でした。
前職より、リーダーとして大事なのは「チームとしての目標を明確に示すこと」と教えられてきました。その目標に向けて、メンバー一人一人が専門性を磨き、プロフェッショナルとして一丸となって目標達成に向う。そんなチームつくりを私は目指しています。「救命」がその重要な柱となりました。
その後も、ビル内では様々な「緊急事態」が発生します。エスカレーターで転んで頭をぶつけた、テナントの従業員が厨房で大量出血している、オフィスで女性が倒れている等々...日々発生する緊急事態に対して、適切かつ迅速な対応を行うことに全力を尽くす隊員達の成長を、とても頼もしく感じています。親ばかですかね(笑)
東日本大震災の影響もあり、ビルに入居されている各企業様の防災への意識が急速に高まりました。BCP、BCMへの取り組み強化のため、お客様より防災の勉強会開催の要請をいただく機会も増えました。いざという時に備えて、皆さんの意識を高め、しっかり準備していただく。防災は救命への重要な一歩です。「防災への準備、日ごろからの訓練こそ、いざという時に命を守る」そう信じて、我々隊員一同は、ビルの入居者全員にその思いが届くよう活動を続けています。
大勢の受講者さんが、勉強会で防災に関心を持ち、真剣に私の話を受け止め、私の想いが伝わった手応えを感じる講演が出来た時、少年時代のライブのステージで感じたあの高揚感を思い出しました。まだまだ青春ですね。
"休息"から"生涯の仕事"へ!警備のステージに立ち続ける事を決意
この4月、私は15年間の隊長業務を卒業し、全国の支社社員の教育指導を担当することになりました。警備の現場一筋で走ってきた私にとって、法定に基づき教育指導を担う今回の仕事は新たな挑戦です。今は、関連法規を含め適切な指導が実践できるよう、改めて「0(ゼロ)」からの勉強の毎日です。一方で、私自身が「救命」「防災」を軸に於いて取り組んだチーム作りの体験で得てきたことが、これからを担う若い隊長、隊員達に何らかのヒントを与えることに繋がればと考えています。
今後、AIやICTの進化で警備の仕事も変化していくと思います。それでも私は、警備の仕事は"人"でなければできない、"人"だからこそ出来ることがきっとあると信じています。今回のミッションを通じて、一人一人が警備の仕事を通じて実現したい「目標」を明確にし、、プロフェッショナルに向かって磨き続ける。そんな"人"つくりに、少しでも役に立てたらと考えています。
前職で心身共に限界を感じ、"休息"のつもりで選んだ警備の仕事。あれから20年、こんな機会を与えてくれた会社には感謝しています。3人の子供達も独り立ちし、昨年、長男夫婦の初孫も誕生しました。休日には、妻と二人で御朱印巡りを楽しんでいます。二人で買った御朱印帳を一杯にするまで頑張るつもりです。
人生100年時代を迎えた今、私は生涯この警備の仕事に関わり続けたいと本気で思っています。いくつまで頑張れるかわかりませんが、最後は地元の小さな現場で人生を終えることが出来たら幸せです。