人生を振り返ったときに、本当に良かったと思える仕事を選びたい!|人生100年時代のライフシフト
- 100年時代のライフデザイン
- 公開日:2024年4月16日
東京都三鷹市の介護施設、ホームステーションらいふの施設長として働く河野 武史さんの前職は、外資系医療器メーカーの東北地区エリアマネジャー。仙台駅前のタワーマンションに住み、ブルーのアウディに乗る暮らしをしていた河野さんは、なぜ年収が6割にダウンすることも厭わず、全くの未経験の介護施設長に挑戦したのでしょうか。そこには後悔のない人生を歩みたいという思いがありました。
この記事の目次
PROFILE
河野 武史(かわの たけし)
・石川県出身、神奈川県横須賀市に妻と息子(13歳)と在住
・株式会社らいふ(介護事業)、ホームステーションらいふ施設長
・企業内の「業務品質コンテスト」で最優秀賞を受賞
結婚・妻の出産が「これから」を考えるキッカケ
学生時代は文系で、医療とは程遠い学生生活。就活はいわば氷河期で苦労しましたが、将来の需要がなくならない領域と考えた医療業界の関連商社に運よく入社できました。お客様や先輩社員達にも恵まれ、比較的早い段階で独り立ちも果たし、順調な社会人のスタートが切れたと思います。営業の基本は人対人の信頼関係の構築。丁度各メーカーが続々と新商品を投入してきたこともあり、業績は順調でした。
30歳を迎えた頃、営業先で看護師をしていた現在の妻との出会い、結婚、出産とLIFEイベントが続き「これから」を考えるようになりました。改めて自分の仕事を振り返れば、お客様は先輩方が培ってきた信頼の基盤を引き継いだ信頼に過ぎず、自分の力で関係構築ができているとは決して言えないのではないかと感じたのです。
選ばれているのは商品であって、自分では無い。本当の意味での営業の力は身についていないのではないか。このままで私の将来は大丈夫なのかと、不安になりました。どうすれば市場でも通用する力が身につくのか...「これから」のために、商社からの転職を考え始めました。
縁あってお声がけいただいたのが、日本上陸間もない外資の医療器メーカー。そのメーカーの最終面接時「東北地区の立上げを担って欲しい」と言われたことが、一番の決め手でした。縁もゆかりもない東北地区での立上げの要請は、私の商社時代のお客様基盤をあてにした採用ではなく、正に私個人の可能性を認めてくれた証だと感じたのです。
外資系の厳しい環境の下で、期待に応えられる力を身につけたい。新たな土地での生活に不安を隠せない妻を説得し、私は入社と仙台赴任を決意しました。学生時代から何となく夢見てきた「いい家に住んで、いい車に乗って」という漠然とした目標の実現のためにも、外資メーカーの報酬は魅力的だったことも事実です。
たった一人の立上げ。支えたのは"認められたい"そんな、負けん気
「ゼロ」からの東北の立上げは確かに苦労しました。海外では実績のあるメーカーでしたが、日本では正にスタート。たった一人で乗り込んだ東北の地で、循環器系の先生にひたすら足しげく通う日々。商社時代の営業経験を通じて、エリアの先生との信頼関係を徐々に積み上げていきました。何よりも、高校時代のラグビーで鍛えた負けん気の強さが、最大の武器だったのかもしれません。
当時、海外で実績のある商品でも、日本で展開する際には認可の壁。乗り越えるために必要だったのは、実績データの蓄積でした。その中で、東北地区の循環器系の先生の中でも権威のあるY大学病院の先生が、私の商品に関心を持ってくださいました。先生の旗振りで地域の多くの先生方にもデータ収集のご協力をいただくことができたのです。
私は、東北地域を名実ともに駆け回り、想定以上のスピードで治療結果の大量のデータの収集に成功しました。そのデータを基にY大の先生が論文をまとめ、米国の権威ある学会「血管医学インターベンション会議(VIVA)」にて発表するに至りました。正に思い描いた営業シナリオが花開いた瞬間でした。
この成功をキッカケに、業績は一気に急上昇。人員も10名まで拡大し、私はテリトリーマネジャーに昇進しました。リーダーとして自身で営業推進をするのはもちろん、次世代の管理職を育成することにも力を注ぎ、実際に2名の管理職の登用にも繋がりました。その頃、仙台駅前に夢だったタワーマンションを購入。あこがれのブルーのアウディの納車の時は本当に嬉しかったです。
心を動かしたのは、妻からの「初めてのお願い」
迎えた40歳。私の心をざわつかせることが立て続けに訪れました。まずは盤石と思われていたY大の先生はじめとする、東北地区の先生方との信頼基盤が徐々に崩れ始めたのです。長い年月を通じ先生方と共に積み重ねてきた信頼基盤は、そう簡単には崩れはしない。そう信じていました。
しかし、それは私の妄想でした。徹底した価格戦略、新たな魅力的な商品の投入等、次々に打手を打ってくる競合メーカー達に、先生の心は徐々に奪われていきました。結局、先生方が選んでいたのは"私"ではなく、 "商品"や"価格"に過ぎなかったのか...そう感じざるを得ませんでした。
追い打ちをかけたのは私の想い描いたキャリアアッププラン、マーケティング企画部署への異動願いが叶わなかったことです。東北での営業実績をベースにした次なるステップはもろくも崩れ去りました。理由は明確、私の英語力の低さでした。スクールに通う等の準備もしてきましたが、本社の望むレベルには遠く及ばず...いつでも異動できるように部下の育成にも注力してきたこともあり、切ない思いが胸を包みました。
そんな時に「妻の実家の義父が倒れた」と突然の連絡が入りました。妻は一人暮らしの義父の下に駆け付け、一先ず無事を確認した上で仙台に戻るなり「心配な父の為に、いつでも駆け付けられる地元神奈川に戻りたい」と。それは、結婚後妻から私への「初めての願い」でした。
これまで、家庭を顧みる事無く、ひたすら東北一円を走り続けてきた私。一方で、全く縁もゆかりの無い土地で、子育ても、家事も、仕事も一人で踏ん張ってきた妻。きっと心細い事もたくさんあったに違いありません。それでも、常に私と家庭を支え続けてきてくれた妻改めて感謝の想いと共に、罪の意識すら感じました。そんな妻からの「初めての願い」は本当に大きかったですね。私は家族と共に、地元の神奈川へ戻る事を考えるようになりました。
やってきて本当に良かったと思える仕事を選びたい!
その頃、ある手術に立ち会いました。患者さんは50歳位の働き盛りの男性。重い糖尿病を患い、既に足首から下は壊死してしまう寸前の状態で、切断もやむを得ないような症状でした。そんな状況の中、先生のお陰もあり、患部さんに私の会社のステントを入れる手術が成功。奇跡的に、普通に歩けるまでに回復することができました。
何よりも感謝してくれたのは患者さんの奥様。その後、病院内でお会いした際に、手術に立ち会っていた私を医者と勘違いされたのか「先生!本当にありがとうございました。命の恩人です。」と涙ぐみながら感謝の言葉をいただきました。私にとってそれは衝撃的な出来事でした。
一貫して医療器の営業に携わってきていた私にとって、お客様はあくまでも"医療機関の"お医者様・先生"。目の前の先生方から認められることだけに、ひたすら全力投球してきました。しかし、医療に関する仕事にとって真のお客様は、当然患者さんそのものであり、その患者さんに想いを馳せるご家族であるという最も大切な事が、いつの日からか自分自身の中で欠如してしまっていたのではないか。本当にショックでした。
自身のこれからを考える上で、確かに目の前の報酬も大切です。しかし、それ以上にその仕事をやり遂げたときに、ある意味引退するときに、「やってきて本当に良かった」と思える仕事を選びたい、心から思えた瞬間でした。そうして始めた転職活動。これまでの「モノを売る」仕事ではなく、自分自身の力でお客様のために「仕組みを作る」ことにチャレンジしたい。
そして何よりも、今度こそお客様と本気で向き合い、真に役に立てる、そんな仕事を選びたいと考えるようになっていました。そんな中で偶然出会ったのが、現在の会社です。介護施設長募集の募集を見て、介護領域もありかな?と情報収集程度の気持ちで面接に臨みました。
その最初の面接時に「当社で施設長を目指すのであれば、入居者さんのことはもちろん、その先のご家族に想いを馳せることが大切、それをどう具体化するかを考えて欲しい」いきなりの直球が、私の胸のど真ん中に投げ込まれました。正に私がやってきて良かった、と思える仕事は「これだ」と直感的に思いましたよね。
もちろん、介護は未経験。しかも、いきなり施設長という責任の重いポジションで、命を預かる大切な仕事です。不安がなかったと言えば噓になります。報酬も、前職の6割くらい。それでも、入居者さんとそのご家族にも満足を届けるために、自分の手でその仕組みを創造することにチャレンジできるとわくわくした想いは、今でも忘れていません。直感を信じた私の意思決定を、妻も喜んで応援してくれました。
介護業界は未経験でも、管理職の経験は存分に活かせる
介護職未経験の私、全てが勉強でした。入社後、研修期間を通じて、とことん現場の介護実務を体験させていただきました。介護現場の難しさ、スタッフの苦労の一端を肌で感じる機会を得ることができて、本当に感謝しています。次々に起こる想定外の出来事も、入居者さんからの無理難題にも、常に笑顔で対応するスタッフの姿に、頭が下がる思いでした。
6か月の研修期間を経て赴任したのは、設立3年目の三鷹の介護施設。入居者さんが約30名、担当する施設のスタッフが8名の中規模な施設でした。先ずは、業界未経験でいきなり施設長となった私を迎えて、不安に感じている自社のスタッフとの信頼関係の構築に力を注ぎました。とにかくスタッフとしっかりと向き合い、話を聴くことに多くの時間を割きました。
面談機会を通じて、スタッフ全員がこの仕事に誇りをもって臨んでいる事を実感すると同時に、スタッフそれぞれが持っている承認欲求が必ずしも満たされていない、微かな不満の気持ちを持っていることも知りました。そこで、スタッフそれぞれが目指したいことや苦手なことをヒアリングした上で、施設としての目標達成に向けて期待することを一人ひとりに明確に伝えました。
そして、その進捗をすり合わせる場を定期的に作るようにしたのです。社員全員が集まるミーティングも週一回は開催。前半は施設の目標に対する進捗状況や全社の方針の共有、後半はメンバー同士で主体的に、現場で起きている問題の共有、課題の解決に向けた議論ができる場にできるよう工夫しました。
私の目指す、入居者さんやご家族に真に寄り添う施設の実現のためには、スタッフ一人ひとりが同じ想いをもって、現場で主体的に判断できるようにすること。その基盤構築こそ大切と考えたからです。個別の面談と、定期的なミーティングを重ねる中で、徐々にスタッフとの信頼関係の構築が進んできたと思います。
そうして半年くらいがたった頃、定期ミーティングの中で一人の入居者さんの気になる状況が共有されました。「88歳の女性のCさんが親しいお友達が亡くなってしまい、元気をなくしている」という話でした。どう対処するべきかミーティングを重ねると、実はCさんは手先が器用で、手芸や洋裁が得意。趣味の域を超える作品作りができる人だということが判明しました。
他の入居者さんにCさんの手芸や洋裁のスキルを伝授してもらい、周囲とのコミュニケーションの機会に繋げ、再び元気を取り戻して欲しい。ミーティングを通じて、そんな対応がまとまりました。最初は遠慮がちだったCさんも、そのスキルの高さが評判を呼び、瞬く間に輪が広がっていきました。こうなると、その取り組みは次のステージに発展。なんと、入居者さんみんなで作った作品をご家族向けに販売しようという企画が決まりました。
大好きな手芸の取り組みで、すっかり元気を取り戻したCさん。その指導の下、手先が器用な人も、苦手な人も、皆で助け合いながら作品作りに取り組む入居者さん。そして販売日に向けて、集客の広報と未だ残るコロナの感染の対策に様々な知恵を絞るスタッフたち。正に施設全体が一つになって、新たな風を巻き起こす。そんな瞬間となりました。
コロナ禍で面会すら自由に許されない期間が長かったこともあり、集客自体も心配されました。しかし、当日は多くのご家族に参加いただき、予想以上の販売実績を残すことができました。そして、その場が入居者さんのご家族同士の相互コミュニケーションの場になりました。これは、全くの想定外。様々な悩みを抱えるご家族たちが悩みを共有し、各々の思いを交わすことで、新たな繫がりが紡がれていく姿をリアルに感じました。
日常業務ですら一杯いっぱいでこなしている中、スタッフたちはコミュニケーションを重ね、知恵を絞ることで少しずつ壁を乗り越えていきました。広がっていった入居者さんの笑顔が、スタッフのエンジンにもなりました。今回の機会は、施設のスタッフにとって目指すべき施設の姿に向けての小さな一歩となったのです。
この取り組みは、社内で開催された「品質コンテスト」で高い評価を受け、見事最優秀賞を受賞。スタッフの自信に繋がったのはもちろん、入居者の皆さんにとっても、また一歩前に向かえる勇気に繋がったと信じています。
入居者さんとご家族にも真に満足いただける施設作り「生きる力を引出す介護」の実現に向けて、まだまだ私の取り組みは緒に就いたばかり。私の今後の課題は、現在の施設で共に頑張るスタッフの中から、同じ想いを持つ次のリーダーを担える人材を育成することです。そのリーダーを中心に、さらにかけがえのない施設作りの輪が広がっていくことに、少しでも貢献できたらと考えています。
幸い、義父の状況も安定し妻も一安心。私も、お陰様で東北ではなかなか実現できなかった家族との時間も大切にできるようになりました。まだまだ息子の部活の送迎くらいしか妻の役には立っていないですけどね(笑)。いつか成長した息子に、私の高校時代のラガーマンとしての武勇伝を聴かせる日を楽しみにしています。