【Well-Passインタビュー】キャリアは自分の心で描くもの

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【Well-Passインタビュー】キャリアは自分の心で描くもの

今回は、原田史子さん(51)にお話を伺いました。国語講師や日本語教師としてキャリアを重ねつつ、4人のお子さんを持つお母さんでもあります。そんな原田さんの口からは、失敗を恐れずに自分らしく軸を持って生きることの大切さが語られました。

この記事の目次

    一度きりの人生、悔いなく生きなきゃもったいない

    1994年3月、私は東京の大学を卒業後、就職も決めずに地元佐賀県に帰郷しました。
    当時、バブルが終わりを迎える中、自分に向いている仕事が分からず、進路に悩んでなんとなく知り合いや友人のいる地元に帰ったという感じでした。

    都会での一人暮らしは不安や寂しさでいっぱいで、在学中もよく帰省していましたし、両親も何も言いませんでしたね。帰郷後は、友人に紹介してもらった建設会社で正社員の事務として働き始めました。

    ところが、その翌年に阪神淡路大震災が発生。テレビで見る火事や倒壊した建物の映像に衝撃を受けました。友達も住んでいたので「何かしなきゃ」と焦ったのをよく覚えています。でも何もできなくて、、「突然命が消えるってどんな気持ちだろう」そんなことを考えましたね。

    そして自分のやりたいことって何?と、自分に問いかけて、出てきた答えが「教師になりたい!」でした。実は大学で教職過程を取っていて、教育実習で中学校に行き、人と人の触れ合いのある仕事っていいな、と感じていました。しかし、自分には重責すぎて無理かもという思いと、大学4年の時に教員採用試験も一応は受けたのですが落ちてしまい、ご縁がなかったと言い訳をして諦めてしまったんです。

    でも、諦めちゃいけない、挑戦せずに悔いを残すのはよくない、そう震災が教えてくれましたね。そこで建設会社は退職して、教育委員会に講師の登録をして、夏の採用試験の受験勉強開始。でもすぐに中学校の国語の講師の話しがきて、学校現場で働き始めました。無我夢中で、先輩教員に教えてもらいながら頑張ったと思います。悔いなく今を全力で生きる、そんな思いで多感な中学生と向き合っていた気がします。

    小さい時から文字を読むのが好きで、本の世界を空想するような子で感性は豊かだったと思いますよ。だからかな、大人と子供の間で揺れ動く中学生って、ドラマチックで好きでしたね。今でも当時の生徒のことは思い出しますよ。

    教師としてのキャリア人生と母親としての生き方

    講師として働きだして1年が経ち、覚悟を決めて教師の仕事に没頭していたんですが、大学時代から付き合っていた恋人にプロポーズをされました。彼の仕事は転勤の多い仕事で結婚したら自分のキャリアを積んでいくような生き方はできないな、と分かっていました。

    でも、若気の至り(笑)で、またいつか教員できたらいいな、と想いながら、25歳最後の日に結婚しました。教え子たちとはFacebookなどを通じていまだに繋がりのある子もいて、SNSは本当に便利ですね。こうして教え子たちの近況を知ることができるんですから。

    結婚後は大阪府、兵庫県、それから愛知県と転勤しましたよ。その間4人の子どもにも恵まれて、ひたすら家事と育児に全力投球でした。いわゆるワンオペですか?少し前まではそれが普通でしたからね、仲良くなったママ友に助けられながら子育てをしていた気がします。夫は遅くまで仕事で、でも、帰宅したら話しはどんなに長話でもうんうんと聞いてくれて、私はそれだけですっきりでしたね。

    子供を育てる中で、私が子供から思いやりの言葉をもらうとか、優しく助けてもらうとか、たくさんの事を教えてもらったと思います。何より無償の愛がどんなものか気付かせてもらいました。育児は育自だったんですね。いや~、私の場合は産んだ4人に育ててもらってやっと一人前の母親にしてもらったんでしょうね。

    第一子が小学6年生。末っ子が2歳の時、夫の実家で義父母と共に暮らし始めたんです。子供の転校をなくすための策でした。しばらくして、時間に余裕も出てきたことから、何気なく講師登録をしたんです。そしたら、すぐにお話をいただいて、思いがけず、働く事になりました。

    ブランクが長くて不安しかなかったのですが面接してくださった教頭先生の「必要なのは情熱だけですよ、どんな大変なことも情熱さえあれば乗り越えられる、さあ、一緒にやりましょう」との励ましに感動して、挑戦することにしたんです。でも働いてみると、時代は変わっていました(笑)

    私は浦島太郎のようでした。手書き・ワープロが主流だったのに、パソコンなる未知の機械での作業の多いこと。周りに教えてもらうことばかりで、できないし情けないし帰りに車の中で泣きました。というか職場でも泣きました。40過ぎのおばさんが。今思うと少し恥ずかしいな。でも、恥はかきすて、おばさんは強し、ということで忘れましょう。

    夫の実家のサポートがあるといえども、働きながらの子育ては大変な事もありましたね。家にいるときはよく見えていた子供の友達関係とか、何気ない言葉から分かる事とかが分からなくなって、そこから見えるはずの子供の気持ちに鈍感になって不用意な言葉を投げかけたこともありました。

    仕事応援派の子供は、私がいない時間が長いのをいいことに宿題もせずに遊んでました。授業参観や行事にもでれないことがあって、自分の中で、もやっとすることもありましたが、来ないでほしい子にはラッキーと思われてたようです。子供の前では仕事の愚痴は言わないようにしましたね。大変だけど楽しい、って話してました。だからかな、うちの子達は働くことはきらきらすることと捉えてましたよ。

    教員も子供とかかわるのが仕事で、自分の子供と同じくらい大切にしました。中学生は、一番感情の揺れ動く時期で、自分でもコントロールできない時もありますよね。みんな通ってきたはずなのに親になってみると理解しがたいもののように感じたり、生意気に感じてついやかましく指導したり、親子の関係も再構築の時だし。

    そんな時、私のような4人の子育て経験のあるママ先生は喜ばれたと思います。保護者の方との話しも盛り上がったりしてね。反抗心剥きだしで口の悪かった生徒も卒業前には照れながら「先生、あの時はありがとうございました...!」なんて言いに来るんですから。人が変容していく様を間近に見られる教師の仕事ってほんとにやりがいに満ちています。

    私、特技は子育てって言えるくらい、多くの経験や体験をさせてもらいました。子どもは本当にすばらしい宝物。自分の子でなくてもかわいい。だから私は教育の仕事に向いていると思います。

    教員生活5年目を迎えた時のことです。一番下の子が「お母さんにもっとお家にいて欲しいな」と言ったこともあって、最後の子育てだし、もう少し深く関わりたいと思いました。夫も転勤で国外に出ており、仕事が更新されるタイミングだったこともあって、職場を離れることを決意。

    でも、半年もしたら時間を持て余してしまい、いずれ夫のところに転居する予定だったので日本語教師養成の専門学校に通い始めました。高校生の時に、外国で日本語教師をしたい、と夢見たことがあったのですが、大学で日本語を学び始めた時にその難度の高さに挫折してしまいました。

    夫に相談したら喜んで、背中を押してくれ、またまた新しい挑戦を開始しました。人生って、本当に面白いですよね。子育てが思いもかけない価値となったり、過去に思っていても挑戦できなかった事が巡って再チャレンジできたり。色々なことが螺旋階段のようにつながって自分のキャリアや人生を築いていくんでしょうね。人だけでなく、こういう物事との出会いもご縁なんだなと思いました。

    夫の転勤先のミャンマーについて行って分かったこと

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    夫の転勤でミャンマーで2年間生活しました。末息子は小学生だったので連れて行きましたが、高校1年の息子は寮のある高校にして日本にのこしていきましたね。少し寂しい思いをさせたかなと今でも心が痛むときがあります。

    現地での生活は、はじめてのことばかりで楽しかったですね。親切なミャンマー人に恵まれて優しくしてもらいました。ミャンマーでは働き者の女性が多いのが印象的でした。うちに来てくれていたお手伝いさんも、とてもいい方でよく働く方でした。

    日本では家事・育児をお金で他人に頼むのは気が引ける人が多いですよね。でも、経験してみて分かったことは、一人で頑張りすぎないで、頼めることは人を頼ればいい。そうしたら、自分がもっと働けたり、時間にゆとりを持てて心が軽くなったり。

    日本の女性はがんばりすぎだと思いました。社会全体で家事・育児を分け合うというか助け合うというか、例えば、その分野の技能実習生を入れるとか、良いと思うんですけどね。

    生活で大変なこともありました。買い物に行くとニワトリが毛をむしられた状態で、捌いたら気持ち悪くて自分は食べることができなかったり、あぶらっこい料理が多かったりして、最初はお腹の調子を壊しがちでした。

    半年もしたら現地の状況も分かってきて、日本語教師の資格を活かしてミャンマーの方に日本語を教える日本語教師の職に就いたんです。まさに専門学校での学びが実地で活かされた瞬間でしたね。日本で働く夢を持った若い子は真剣に勉強していました。

    その子たちが日本に行けるように私も全力で日本語や日本の文化について勉強し教えてきました。楽しく働けましたね。ほんのお小遣い程度の収入でしたが、働く充実感みたいなものがありましたよ。

    1年ほどして、コロナが世界に広がり始め、駐在員家族の私と息子には帰国命令が出てしまい、やむなく帰国してしまいましたが、また行きたいですね。外の世界から日本を見たから学べたことがたくさんありました。仕事もそうですし、子供の学校関係の方との交流も大きな刺激になりました。どんなことにも興味を持って積極的に関わっていこうとしたことが良かったのかな。

    これからの生き方を考える

    子供達も高校生以上になって、手がかからなくなってきました。つまり自分の時間が増えたきたんです。好きな読書をしたり、ウインドーショッピングしたり、カフェでのんびりしたり、楽しんでますが、仕事探しもしてみました。派遣会社に登録してどんな仕事があるか、自分にはどんな仕事ができるか、調べてね。

    急にフルタイムでバリバリ働く自信はなく、短期の品出しのようなものを見ていましたが、面接3つくらいしましたが全部落ちました。理由もわからないので、一人で落ち込むしかなくて。探し方とか自分の適性を分かってなかったのかな。

    たまたまレンタカーを借りたことがご縁で、うちで働きませんか?と声かけてもらいました。自宅から徒歩5分のそのレンタカー会社の受付で、今は週に3回くらいアルバイトをしています。

    少し稼いだお金で、アフリカ関連のボランティア活動をしています。実は、高校生ぐらいの時からアフリカに興味を持って、日本語教師でアフリカに行こう、と夢見ていた時期があったんです。実際にアフリカのケニア、ザンビアなどを回って現地の方と交流したり、宿泊させてもらったり、なかなかできないような経験もさせてもらったこともあります。

    日本では水道の蛇口をひねれば水が出ますが、アフリカではそうではありません。驚きましたね。お風呂に入るのも自分が大きな桶に入って汲んだ水で体を流し、体を洗い終わった水がその桶にたまって、次はそれをトイレの水として活用するんです。

    昔から好奇心旺盛な性格でしたが、実際に飛び込んでみて自分で経験することで分かる事、感じるものがあるんですね。いまも忘れられない良い体験でした。

    アフリカに興味を持ったのは、ある詩人が「21世紀の大陸・アフリカ。一番苦しんだ人々が一番幸せになる時代に」という文章にふれて感動したからです。なんて愛情深い考えなんだろうって。私も同じ思いで貢献したい!と思ってました。

    だから今のボランティア団体と出会ったときも、すぐに惹かれてしまったんでしょうね。その団体の中で、アフリカの方に日本語を教えるグループもあるんですよ。今までの自分の経験が活かせますよね。他にはアフリカの食材を扱ってマルシェに出店したり、お料理教室の手伝いをしたり。これも長年主婦をしてきたおかげで手際よく動けます。

    自分なんて何も取り柄がないと思ってきたことが活きるとき、花開くときがあるって年を取ってきたから分かったんですよね。今からは、社会に貢献できる生き方がしたいなと感じています。身近なところから少しづつね。倦まずたゆまずね。

    子どもたちが手を離れつつある「今」から「未来」の新たな自分へ

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    現在、上の2人は就職し、3番目の子は大学生、4番目の子は高校生。
    三者三様って言葉がありますけど、ほんとにそう。4人とも性格も趣向も全然違います。母親として面白いなと感じています。私の子育てのキーワードは、「ちゃんと稼げる大人にそだてる」ことでした。

    たぶん今のとこうまくいってるかな(笑)自分の足で立って人生を謳歌しているようです。たまに帰って来ては甘えてますが親の気持ちに応えてくれている子どもたちを誇りに思うし、感謝しています。

    振り返って分かることは、私は、夫と4人の子供達から無償の愛の様々なカタチを学んだってことですね。おかげで、すこし人間としてランクアップさせてもらったんだと思いますよ(笑)これも感謝しかないですね。

    ママ友にも恵まれたので、よく一緒に、お茶しながら、ストレス発散のおしゃべりタイムも楽しんで、同年代みんなでこれからの人生の生き方を語っては励まし合ってますね。子どもたちがいなかったら出会えなかったご縁。これもまた感謝です。

    これから先、私は語学を勉強して、もっとできる日本語教師を目指したいと思っています。今までみたいに洗濯も3回もしないし、ごはんも手抜きするし、散らかっても気にしないで、自分の没頭できる世界を持つつもりです。若い頃にできなかった事を悔やんでも仕方ないので、おばさんらしく、強メンタルで挑戦しますよ。

    自分の人生に悔いを残さないようにしたいと思っています。どうしても結果や体裁に縛られてしまうことが多いけど、挑戦を諦めなかった人生っていうのも素敵じゃないですか?そうやって目の前のことに一生懸命に、自分の与えられた人生に抗わずに近くの人を大切にして生きていきたいです。

    それに、人生ってひとつでも「私、一貫してこれだけは頑張れたな」と思える何かがあればいいんじゃないかなって。それが仕事でもいいし、社会貢献でもいいし、子育てだって、パートナーを支えることだって、何でもいいと思います。

    人生100年時代。多様な生き方があり、SNS等のおかげでつながれる世界も増えましたが、会社や学校に行く家族に「いってらっしゃい」って送り出して、誰かに感謝の気持ちを伝える「ありがとう」がちゃんと言えて、帰ってきたときに「おかえり」って笑顔で迎えることができる、そんな些細なことに幸せを感じてもいいかな。

    でもやっぱり社会でバリバリに働いて多く人と関わる生き方にも挑戦しますよ、今から!おばさんは強メンタルですから(笑)

    まとめ

    ライターの私自身が結婚や人生における悩みを聞いていただいているような懐の深い原田さんの笑顔が印象的なインタビューでした。原田さんには、ご結婚や子育てを経て感じてこられた女性のキャリアの重ね方について多くを語っていただきました。

    ミャンマーと日本の比較では多様な価値観を学ばせていただき、日本ではまだまだ女性が働くこと、子育てをしていくことは大変だと窺い知れました。その中で、環境に感謝し社会のために自分がどう生きられるかを見つめることが大切だ、と語る原田さんは筋が通っていて本当にかっこいいなと思いました。

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