優しい多文化共生社会を創りたい!"学歴、職歴、無縁から日本語教師への挑戦|人生100年時代のライフシフト
- 100年時代のライフデザイン
- 公開日:2025年6月23日
この記事の目次
PROFILE
和田健一(54歳)
・神奈川県茅ケ崎市出身
大学中退後、就職氷河期の中、地元の防犯機器メーカーに就職し、20余年間勤務。50歳を迎えた頃、製造拠点の海外移転により突然の失職。変化の中で、自分と真剣に向き合い、「自分の得意な事で人の役に立ちたい」という想いから、気になっていた日本語教師へ挑戦。様々な国の留学生との出会いを通じ「優しい多文化共生社会を創りたい」と日本語教師に想いを込める。
閉ざされたミュージシャンの道。23年間の地元工場勤務の突然の終焉
小学校1年生の時に、地元茅ヶ崎市南湖からサザンオールスターがデビュー。その影響は大きく、中学・高校と当たり前のように、ピアノ・ギターと音楽の道を歩みました。大学に進学後に、ライブ活動と併行して力を入れていたのが作曲でした。
コンピュータミュージックが走りの頃で、運が良かったのかとんとん拍子にCMソングの作曲の仕事をいただけるようになりました。お茶漬けで有名な食品会社や大手眼鏡チェーンなど、メジャー企業のCM制作に携わることになったのです。
想定以上の報酬で、確かな手応えを掴んだつもりの私は、大学を中退してCMソング作りに専念することを決意。フリーのミュージシャンとしてCMソング作りに昼夜を問わず走り続けました。しかし、その生活は長くは続きませんでした。
時を追うごとに顧客からの質への要望は高まり、納期は短縮、次々に襲い掛かる理不尽な修正や変更の数々。若さに任せて走り続けた私への積もり積もった心身への負担に遂に心が悲鳴を上げてしまいました。残念ながら音楽の仕事を断念せざるを得ない状況になってしまったのです。
療養の期間を経て徐々に社会復帰に向けた動きをスタート。リハビリも兼ねて、地元の防犯機器工場でアルバイトを始めました。体調管理に取組みながら、コツコツと続けたモノ作りの日々。3年後、その姿勢を認められ社員登用していただきました。就職氷河期の時代だっただけに、ありがたかったですよね。
その後、外資系企業による企業買収やリーマンショックなど様々な困難や変化を乗り越え、入社から20余年いつしか私も現場のリーダーの役割を任せられるようになっていました。コロナの感染拡大もようやく落ち着きを見せ始めた2022年、そんな生活が突然終焉を迎えます。生産の海外移転に伴う工場の閉鎖が発表されました。
自分と向き合う為に修験道の修行へ。困難に遭うと勝手に前向きになるスイッチが入る
工場閉鎖までの3か月間、今後に向けての情報収集の中で、山形の修験道が目に留まりました。以前体調を崩した時に通った、禅の影響もあったと思います。自分自身と向き合うために非日常の修行の機会を体験することにしました。まさに異次元の体験でした。
スマホも厳禁、完全に閉鎖された世界です。予定表もない中、法螺貝の合図に従い行動する。出羽三山を駆け上り、滝に打たれる、最終日には火渡りの儀。「無」になるしかなかったですよね。帰宅後の自分は「自分の得意なことで人の役に立つ人生にする」という覚悟を決めることができました。
そして、「誰」の「どんな」役に立ちたいのか?を考える中で、以前から気になっていた"日本語教師"について調べを進めました。そのうちに、想いが関心から確信へと変化していったのです。
就労人口の減少に伴い、増加する外国人労働者。一方で日本で就労する外国人へのサポートが十分とは言えず様々な問題が発生しているとの報道。私の心のざわつきが、TCJの日本語教師養成講座の説明会の参加により"確信"へと変わりました。
語学の専門性の無い私にも本当にできるのか?不安から自信へ
とは言え不安がなかった訳ではありません。大学を中退し、特に語学(英語)を専門に学んだことのない私でも本当に日本語教師が務まるのか?その疑問は早々に払拭することができました。
まず、そもそも留学生の大半がアジアの学生で英語圏でないこと。また、講義の基本設計が"直接法"という日本語のみで講義を進める方法であること。説明会の模擬授業で直接法による講義を体験し、心の中のもやもやが晴れていきました。
退職早々に半年間の養成講座がスタート。久々の学びの時間は楽しかったですね。退職して生活にゆとりはありませんでしたが、半年間の講習は集中して臨みました。その中でも印象に残っているのが、実際の講義の見学です。
1つの教室に多国籍の学生が集い、キラキラした瞳で真剣に講義に向き合っている純粋な姿、リードする日本語教師の素敵な姿に憧れすら感じました。「自分もここで彼等に何かを教えたい!」本気でそう感じるようになりました。
また、講習が進み、私自身が模擬授業の教壇に立ってみると、20年間封印してきたミュージシャンとして舞台上の"あの感覚"が蘇りました。目の前の人にとことん楽しんでもらう、皆さんの表情がどんどん生き生きと変化していく、それこそが私自身が最高のワクワクの瞬間となる。
心身の体調を壊し、知らず知らず避けてきた人との接点を通じて、私が大事にしていた「あなたに会えて本当に嬉しい」という想いを全身で表現する感覚を感じることができました。
6月に講習を卒業。大学中退の私が日本語教師の資格を得るためには、10月に予定されている"検定試験"の合格が必須でした。「何としても合格して1月から日本語教師になる」その一心で4か月集中して頑張りました。お陰様で一発合格。目標通り晴れて1月からN4クラスの20名の留学生を担当することになりました。
キラキラ輝く瞳の前に立つのが楽しみでたまりません!
いよいよ日本語教師としての講義がスタート。半年間の講習と検定試験の勉強等を通じてほぼ不安は解消。ベトナム、ミャンマー、ネパール、中国等多国籍のあのキラキラ光る瞳の生徒達との時間を楽しみに想う気持ちしかありませんでした。
大切にしたのは2つ。生徒一人一人を理解し、尊重する事、そしてもう一つは事前準備です。様々な国で育ち、多様な想いで日本への留学を志した生徒達。「生徒一人一人と寄り添い、理解し、その想いを叶える為に全力でサポートする」私が最も大切にしていることです。
また、生徒一人一人を尊重するために、生徒達と同じ目線に立つことを重視しています。なぜなら教壇に立つと上から目線になりがち。ネイティブの日本語話者である教師と初級学習者である生徒は構造上主従関係になってしまうので、意識してそうならないように努めています。下から目線くらいが丁度いいと感じています。
より生徒の目線に立った授業を行うために大切にしているのが、事前準備です。特に私が力を入れているのは「絵などのビジュアル」だけでは伝わりづらい、"感情表現"を理解してもらうことです。感情の前提となる背景を理解してもらうために、"一人芝居"や時には"コント"を使って伝えています。
自身の演技や表情を録画し、最適な方法を見つけるまでとことん時間をかけます。本番の講義で生徒一人一人に"感情表現"が伝わる瞬間の達成感を思えば、全く苦労とは思いません。むしろ楽しみでしかないですよね。
優しい多文化共生社会つくりを目指す
前職の失業時に「自分の得意なことで人の役に立ちたい」という漠然としたテーマを掲げたて臨んだ日本語教師。その想いは「日本語教師の仕事を通じて優しい多文化共生社会を作りたい」に進化していきました。
現状、留学生は国によっては、悪意あるブローカーによって搾取されていたり、日本での就業後に過酷な条件で働かされたり、日本独自の文化風習に苦労したり、まだまだ多くの問題を抱えています。私は日本語教師として"日本語を教える"に留まることなく、キラキラした希望に輝く瞳の留学生一人一人が、留学を通じて実現したい想いを叶えることに全力で寄り添っていきたいと考えています。
具体的には、地元湘南の仲間の協力も仰ぎ、日本の日常を体験してもらう"エコツアー"をできるだけ早期に実現したいと考えています。"道なき道を行く"「困難に遭うと勝手に前向きになるスイッチが入る」私の得意技を存分に発揮できるこれからが、益々楽しみでたまりません。