82歳の起業家が挑む、シニア人材が日本を救う"ブライト・キャリア(輝かしい経歴)"革命|株式会社アイ・ヒューマンサーチ
- 企業インタビュー
- 公開日:2026年1月23日
現在82歳の古田さんは、平均年齢71歳のコンサルタント集団を率い、「シニアこそ企業の力になる」と語ります。定年後の20年間こそが人生の黄金期だとし、経験を武器に新たな働き方を創り出してきた古田さんの歩みから、これからの時代を生きるヒントが見えてきます。
この記事の目次
【プロフィール】
代表取締役 古田 良三
北海道余市町出身、82歳。昭和42年、同志社大学文学部卒業後、流通革命の旗手・堤清二氏が率いる西友に入社。店舗現場から本部へ進み、専門店事業の立ち上げなど要職を歴任するも、40代半ばで組織の論理と自身の信念の葛藤から退社。2000万円の借金を背負い、平成元年(1989年)に人材派遣会社「スタッフアイ」を設立。バブル崩壊、リーマンショックという激動の時代を経営者として生き抜く。
65歳の時、自身の集大成としてシニア人材がマッチングを行う人材紹介会社(現アイ・ヒューマンサーチ)を設立。「定年後の人材こそが企業の救世主になる」という信念のもと、平均年齢71歳のコンサルタント集団を率いる。現在も毎週3回1時間の水泳と水中ウォーキングを欠かさない経営者。
北の国から古都・京都へ ―― 演劇に焦がれ、人間の「裏表」を学んだ青春時代
北海道の余市という町で生まれ、札幌で育った私は、高校卒業後に京都の同志社大学へ進学しました。実は私、本気で「演出家」になりたかったんですよ。文学座や俳優座の芝居に魅せられ、本当は早稲田の演劇科に行きたかったのですが縁がなく、同志社の文学部国文科へ。
そこは教授一人に学生が私を含めて3人という、とてつもなくマイナーな環境でした。初めて故郷を離れ京都での生活は、私に「人間」というものを教えてくれました。毎朝近所の人たちが自分の家の前だけでなく、隣の家の前まで少しだけほうきで掃く。その「少しの余白」の積み重ねで、街にはゴミ一つ落ちていませんでした。
そんな京都人の美学と本音に触れながら、私は演劇青年として、人間の機微を学んでいきました。就職活動の時期、私はまだ夢の中にいました。テレビ局を受けては落ち、アルバイトで旋盤工をやって日銭を稼いでは、飲み屋で使い果たすそんな日々が続いていました。
そんな時、ふと目にしたのが西友の求人でした。「西友がある街の幸せを」、堤清二さんが掲げたその言葉と、スーパーマーケットという新しい文化を作る熱気に、私は演出家とは違う「新しい舞台」を感じたのです。
流通革命の最前線と「反逆」―― 大切な100人の部下への想いと人生の選択
昭和42年、西友に入社。当時は毎年1000人を採用するような急成長期です。私は現場を駆け回り、やがて本部で商品開発や専門店事業の立ち上げを任されるようになりました。 35歳の時です。「スーツの専門店を作れ」という特命が下りました。
私は日本有数のテーラーである山形屋さんのオーナーに会いに何度も足を運び、頭を下げてノウハウを教わり、専門知識を持つ社員を100人余の社員と一緒に業績拡大の努力をしました。ところが数年後、会社の方針が180度変わります。
当時、西友はダイエーやイトーヨーカドーと激しい売上ランキング争いをしていました。上層部は「専門店として分社化している状態では、西友単体の売上に計上できない。ランキングで負けるから事業会社を本社に戻せ。事業会社は解体だ」と言いだしたのです。
私は耳を疑いました。企業のメンツのために、私と一緒に働いてくれた100人を超える社員達はどうなるのか。「スーパーの売り場に戻せばいい」と上層部は言いましたが、スーツのプロとして採用した人間に、明日から何を売れと言うのでしょうか。
そんなことをすれば彼らは路頭に迷うか、辞めるしかありません。私は自分の作った組織と部下への責任を取る形で、キャリアを捨てました。40代半ば、妻子ある身での決断でした。しかし、あの時自分の信念を曲げていたら、今の私はなかったでしょう。
2000万円の借金からの再出発 ―― 人をモノにしない働き方を求めて
会社を飛び出したものの、サラリーマンに戻る気はありませんでした。前職時代の大先輩に相談すると「お前、金が要るんだろ? 銀行へ行ってこい」と口添えをしてくれ、2000万円を借りることができました。
それを元手に平成元年(1989年)人材派遣会社「スタッフアイ」を設立。世はバブル絶頂期。さらに人材派遣法が施行されたばかりで、波に乗りました。北海道から九州まで9つの支社・営業所を出し、売上は右肩上がり。
しかし、心の奥底で常に違和感がありました。「派遣」というビジネスは、どうしても「人をモノのように扱う」側面があると感じていたのです。景気が良ければ重宝がられるが、悪くなれば真っ先に切られる。その構造的な脆さに怯えていました。
その予感は、2008年のリーマンショックで最悪の形で的中します。「来月から全員契約終了です」、電話一本で雇用が失われ、全国でドミノ倒しのように契約が切られていったのです。私は「人の雇用を守れないビジネスに、未来はあるのか」と恐怖しました。
その時、私はすでに65歳になっていました。普通なら引退を考える年齢です。しかし、このままでは終われない。当時の派遣のような景気の調整弁ではなく、個人の経験と知見が正当に評価される「人材紹介」の世界で改めて勝負したい。そう決意し、現在の会社の前身となる事業を立ち上げました。

個人の経験と知見が正当に評価される人材ビジネスへ"新たなモデルへの挑戦" ―― 3500万円の赤字と、捨てきれなかった情熱
最初は「金融・証券業界」に特化した人材紹介会社としてスタートしました。私自身は金融のプロではありませんでしたが、人材の流動性が高い業界だと思ったからです。しかし、これが大失敗でした。
リーマンショックの影響は想像以上に尾を引き、立ち上げからわずか2年間で、赤字は3500万円まで膨らみました。「もう辞めようか......」、通帳を見つめながら何度もそう思いました。60代後半で背負う赤字の重みは、若き日のそれとは違います。けれど、どうしても諦めきれませんでした。
当時、定年は60歳。65歳まで雇用延長を選択した人を含め、多くの退職後の多くのシニアが働きたくとも、経験キャリアを活かしてその後も活躍する職場は少ない状況でした。採用する側も、年齢的には50歳くらいまでが限界です。
働きたい多くのシニアが、過去の経験知見とは直接関係があるとは言えないエッセンシャルワークを選択しているのが実情です。結果、彼らが集まれば「孫の話」「年金」「昔の武勇伝」ばかり。「俺の人生、こんなもんだったのか」、そんな寂しさが漂っているように感じられました。
しかし、彼らには何十年もかけて培った「ブライト・キャリア(輝かしい経歴)」、業界の裏も表も知り尽くした知見、社長と対等に話せる度胸を持っています。それを活かさない手はありません。
彼らがその知識を使って企業と人を繋げば、若いコンサルタントにはできない「深みのあるマッチング」ができるはず。そう考えて、改めて事業のコンセプトを根底から作り直しました。 ターゲットは「シニア人材」。それも「シニア自身がコンサルタントとして活躍する」という全く新しいモデルへの転換です。
シニア活用の極意 ――「夕方4時からの酒」で見抜く好奇心の有無

では、どうやって働く人を集めるか...私は「新聞広告」に賭けました。朝日新聞にデカデカと「60歳以上の方、歓迎」という広告を出したのです。狙いは的中しました。私の想定以上に多くの方に応募いただけました。元銀行員、元商社マン、元大手メーカーの取締役などなど。
彼らは皆、それぞれかつて企業戦士として戦ってきた猛者たちでした。とはいえ、シニアのマネジメントは一筋縄ではいきません。体力は落ちる、老眼でパソコンの文字は見えない、新しいシステムの活用は苦手。そこで私は、組織運営に少しだけ工夫を凝らしました。
まず、彼らを「金融・証券」「メーカー・商社・物流」「建設・サービス」という3つの業界別チームに分け、定期的にお互いに知見を共有する「場」を創りました。日常的にはリモートで業務を行うコンサルタントですが、様々な経験や実績を積んできた彼らもやはり一人の力には限界があります。
仲間同士で繋がり、各々の悩みを語り合い、仕入れた情報を共有することで新たな知恵やエネルギーが生まれていきます。人と人が繋がることの大切さは年齢とは関係ないですよね。そして、私が最も重視しているのが「コミュニケーション」です。
チーム別交流会の後に反省会(飲み会)への参加を強く希望して誘います。これが一番の研修であり、選別なんです。酒を飲んで話をすると、その人が「現役」かどうかが一発で分かります。成績が上がらない人は、酒を飲んでも「あいつが嫌いだ」「昔はこうだった」と愚痴と過去の話しかしません。
一方で、70歳を超えてもトップを走るコンサルタントは違います。「今の政治の動き、どう思う?」「あの業界、次はこうなるらしいぞ」と、話題の裾野が広く、好奇心のアンテナがビンビンに張っている。こういうコンサルタントは、どんな企業の社長とも話が弾むし、求職者の人生相談にも乗れるのです。
「俺はもう歳だから」と殻に閉じこもるのではなく、酒を酌み交わしながら「お前の戦略は古いよ!」なんてお互いメンバー同士が言い合える環境を作ること、それがシニアを活性化させる私のマネジメント方法の一つです。
最高齢は81歳。トップを走る女性コンサルタント ―― 企業を救う「最強のオールド・ルーキー」たち
現在、当社には25名のコンサルタントがいますが、平均年齢は71歳。最高齢は81歳で、彼も現役で数字を上げています。彼らの活躍ぶりは、まさに「いぶし銀」です。
例えば、プラントエンジニア出身のTさん。彼はかつて世界中のプラント建設現場を渡り歩いた男です。だからこそ、同業界でくすぶっている技術者を見ると放っておけません。「君のその技術、あの会社ならもっと高く評価されるぞ」と、自分の後輩を導くように転職を支援する。これはもうビジネスを超えた「技術継承」です。
物流会社の社長まで務めたZさん。彼は現場の泥臭さを知っています。クライアント企業が「こういう人材が欲しい」と言っても、「社長、その現場環境じゃそのスペックの人は定着しませんよ」と、現場を知り尽くしているからこその「NO」が言えるんです。
そして、昨年トップの成績を上げたのは女性コンサルタントです。彼女は本当にすごい。ある中小企業の社長から「営業マンを採用したい」と相談された時、彼女は会社全体を見渡してこう言いました。
「社長、今御社に必要なのは営業じゃありません。工場の生産体制が追いついてないでしょう。まずは工場長クラスの技術者を入れましょう。営業強化はそのあとです」 普通の紹介会社なら、言われた通り営業マンを紹介して手数料をもらって終わりです。でも彼女は、経営者のパートナーとして会社の未来を考えて提案をするのです。
結果、その会社は彼女の提案通りにして業績を伸ばしました。今では社長から「ウチの社員のことは、私よりあなたの方が知っている」と言われるほどです。「人事は履歴書を見るが、我々は人生を見る」。これを地で行く彼女のような存在こそ、私が目指したコンサルタントの姿です。

「死ぬ準備」なんてするな ―― 60歳からの20年間こそが黄金期
私は彼らに常に期待し、今をもっと楽しもうと言っています。「60歳からの時代って、最高だよ」と。子育ても終わった、出世競争もない、役職定年も関係ない。しがらみから解放されて、本当に自分がやりたいことに没頭できます。
京セラの創業者の稲盛さんは「65歳からは死ぬ準備」とお教えをいただき、経営の師として仰いでおりますが、私はあえて異を唱えたい(笑)。「60歳から80歳までの20年間は、人生で最も自由で輝く『本番』だ」と。
人生100年時代と言われますが、現役でバリバリ働けるのは80歳くらいまででしょう。その貴重な20年間を、ただ老いていくのを待つ時間にしないで欲しいと思います。最近、免許返納の話題が多いですが、私も免許を返納しました。
しかし、「そのうち空飛ぶ車ができるから、それに乗るんだ」と本気で思っています。好奇心を失ったら、そこで人間は終わりです。80歳になっても「次はあそこへ行きたい」「あれをやりたい」と言い続ける、想い続ける。そんなエネルギーが、仕事にも人生にも艶を与えます。
未来へのメッセージ ―― 失敗してもいい、汗をかき続ける「あなた」が好きだ
これからの時代、労働力不足はさらに深刻化します。AIも外国人労働者も否定しませんが、労働力不足を救うのは次の日本を背負っていく若者たちを教育指導することができるシニアの存在だと考えています。
当社のスタッフの中には、一生懸命やっても結果が出ないコンサルタントもいます。でも私は、"成績が上がらず下を向いている男"が大好きなんです。「どうしてうまくいかないんだ」と悩み、汗をかき、泥臭くあがいている。それだけ真剣に仕事に向き合っている証拠じゃないですか。
そんな彼らが、ふとしたきっかけでコツを掴み、上を向いて大輪の花を咲かせる瞬間があります。それを見るのが、今の私の一番の生き甲斐です。全国のシニアの皆さん。 あなたの経験は、決して過去の遺物ではありません。錆びついているのは能力ではなく、気持ちだけかもしれません。
「過去の肩書き」ではなく、「これから誰かの役に立ちたい」というミッションさえあれば、私たちは何歳からでもヒーローになれます。私は82歳ですが、まだまだ引退する気はありません。空飛ぶ車に乗るまではね。さあ、一緒に「黄金の20年間」を楽しみましょう。人生、これからが面白いんですから。








