50代男性 警備の転職体験談|プライドを捨てる必要なんてない。大切なのは柔軟な経験の活かし方
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- 公開日:2019年3月20日
- 最終更新日:2019年4月25日
義母、奥様、次女と長男、それに愛犬と暮らす58歳の桑沢さん(仮名)。家を離れた長女と次男の計4人のお子様に恵まれ、大黒柱として家族を支えてきました。そんな桑沢さんですが、これまでに5回の転職を経験し、この3月にまた新たな仕事へ就くことに。年を重ねても新たな仕事に就き続ける秘訣や心構えについてお話を伺いました。
この記事の目次
新卒で入社した会社を、家庭の都合で退社
地元東京で生まれ育った私。大学卒業の就活時に「世の世話になるのが学生。社会人になったら世に世話をする側に」という話に感銘を受け、世の中に貢献することを意識し、会社選びをしました。
その中で、「薬を通じて患者様に貢献」する製薬会社に魅力を感じ入社。MRとして働くことで社会人生活をスタートさせました。帰宅の時間は遅いことが多かったですが、一定の裁量を渡されていたため、働きやすさは感じていました。
ですが、営業はやはり数字が最優先。毎日、売上目標を追い続けることは当然と思いながらも、形に残らない仕事であること。そして、自分ではなくても務めは果たせるのでは、というモヤモヤした思いを抱えるようになりました。
ちょうどその頃、食品の製造業を営んでいた義父が体調を崩したことから、「会社を手伝ってほしい」との相談が。妻が第一子を妊娠したタイミングでもあり、「家族での時間を確保できるのでは」という考えもあり、6年ほど勤めた製薬会社の退職を決めました。
家業は餃子などを作り、飲食店や施設などへ納品する業態。家族に加え数人の従業員で切り盛りしていました。しかし、実際に手伝ってみると、業績は決して順調とは言えないもの。検討した結果、事業の整理を行うことにして、退職1年ほどで再度サラリーマンとして働くことを選んだのです。
会社都合に悩ませられた働き盛りの時代
これまでの営業経験が活かせる仕事を中心に転職活動を行いました。しかし、「数字だけを追いかける営業ではなく、モノづくりにも関われる仕事」という軸で探す中、コンクリートを取り扱う企業を見つけ応募。結果、生産現場などにも関わる技術営業として採用されました。
現場も把握しながら、ゼネコンや自治体などの得意先へ営業を行う仕事は面白く、充実した生活を送っていました。しかし、入社して6年程経ったある日。出社すると臨時の朝礼が。そこで伝えられたのはなんと「会社が自己破産する」ということ。同僚がみな「ポカ―ン」となり、顔を見合わせたことを覚えています。
急遽な話ではありましたが、取引先にご迷惑をお掛けする訳にはいかないので、事情を説明する連絡を各方面へ行いました。すると協力会社から「うちに来ないか」というお誘いをいただくことに。まだ小さな子どもたちも抱えていたので、お世話になることに決めました。確か、35歳頃のことです。
入社した会社は前職の仕事と近い土木系の仕事。これまでの経験を活かし、河川の護岸工事を受注するなど順調に働いていた、つもりでした。しかし、入社後7年ほど経った頃から公共事業が減ってきた影響もあり、段々と事業も縮小傾向に。当時は年棒制の正社員として働いていたのですが、業績悪化のため会社都合の退職を打診されることに...。42歳頃のことでした。
人づての入社では交渉はしない。待遇を上げたければ実績を出してから。
「なんで俺が?」という思いはありましたが、家族を養うためには次の仕事を探すほかありません。そんな中で引き継ぎをしていると、また「うちに来ないか」と誘ってくれる会社がありました。それは、取引先であった建材メーカー。渡りに船ではありませんが、お世話になることを決めました。
このように、人から紹介されての入社の場合、求人情報誌を見ての応募ではないため、打診された瞬間では正直待遇はわかりません。ですが、「これまではこれくらい頂いていたのですが」と正直に伝えたうえで、条件は先方へ任せることにしました。
なんと言っても、自分は「これからお世話になる身」であり、過度な要求はしずらい状況です。さらに、入社時は何の実績も上げていないため、要求をしたところで通るかどうかは不透明。であれば、営業としての実績を上げてから待遇については交渉しよう、と考えていました。
そうして入社後、まずは実績を上げることに集中しました。ありがたいことに営業から製造、納品まで幅広い範囲の仕事を任せてもらえ、着実に売上を獲得。それに伴い待遇も改善しましたが、それ以上に会社に貢献している実感がありました。
しかし、外から見ていると商品力もあり、面白く良い会社だと感じていましたが、中から見てみるとまた違ったもの。扱っている商品はお世辞にも品質が高いとは言えないものも多く、それらを隠しながら売上を追求することに疑問を感じるようになりました。
その頃、社内でのトラブルがあり、周囲の人間が信用できなくなる事件などもありました。そのようなことが続いたこともあり、精神的に参ってしまい、自己都合での退職を選びました。
入社して6年が経った、51歳の頃のことです。
正社員、という条件・待遇を重視し、警備の仕事へ転職。
これまで転職を繰り返してきたとはいえ、次の職場が決まらずに退職したのはこれが初めてでした。まだ子どもの教育費もかかる時期であったため「早く仕事を決めなければ」という気持ちはありましたが、それ以上に「これからどうしていこう」と今後の方向性を定めることができないことに苦慮していました。
ハローワークに通っても、求人サイトを見ても、就きたいと思う仕事は少ない。稀にあっても書類が通らないことが続きました。そのような状況に加えて、前職退社時のトラブルの影響もあり、少し人間不信に。歳を重ねると仕事が本当に決まらないことを実感し、鬱々とした日々が続きました。
当時の仕事を探す軸は「正社員」であること。これまでと同じ水準での給与は求めていませんでしたが、家庭を支えるためにも福利厚生の充実した正社員の仕事を希望していましたが、それさえなかなか見つからなかったのです。
そんなとき、妻が駅で見つけてきた求人情報誌を開くと、施設警備の仕事が正社員で募集中。しかし、給与水準は前職よりも大きく下がるもの。その点が気になったのか、面接の際に採用担当者にも「無理には勧めません」と言われました。
しかし、「今まで経験したことのない環境へ飛び込むならば、今しかないかも」という気持ちが芽生え、給与水準には目をつぶり入社を決めたのです。そうして1年ほど続いていた仕事のない状況に、ようやくピリオドを打つことができました。
退屈と感じる警備の仕事。それも自分の意識で変わるかもしれない
入社時に4日程の長い研修を受けた後、現場へ配属となりました。配属となったのは多くの若者が訪れるショッピングモール。この施設から警備生活が始まりました。
施設警備の仕事を簡単に説明すると、施設の持ち主から依頼を受けた警備会社が警備員を派遣し、巡回や監視などの業務を行うというもの。警備の内容については施設の持ち主と警備会社の間で交わされる契約によって決まります。
大切なのは、「何時にこの近辺を巡回する」などの契約で定められた警備内容を果たすこと。「誰か」が「その業務」を行っていれば、その質まで問われることはほぼなく、極論すれば、警備の仕事は「誰かがいればよい」という仕事。
このことを理解したとき、これまでの仕事と比べて、異質のものに感じました。正直、あまりモチベーションは上がりませんでした。
3年程経った頃、より大型のショッピングモールへ異動。そこは家族連れが多く、小さな子どもも多く来店する施設でした。そこで様々な客層と接する中で、徐々に自分の意識が変わっていくのを感じました。
訪れるお客様が安全に過ごしていただくには、施設の雰囲気が良いことが一番。だったらその雰囲気作りに取り組もう。誰から求められているわけではない。でも、自分ができることを少しづつでもやってみよう。そんな気持ちに変わっていきました。
それ以降、巡回のときにはテナントの人へ声がけを行うこと。指定の場所に立ち監視を行う立哨のときには姿勢や表情に気をつけるなど。意識しながら働くようにしました。すると徐々に、前向きな気持で働けるようになりました。「警備は接客業であり、サービス業」なのかもしれないな、と感じるようにもなりました。
そんなある日、体調を崩し病院へ。なかなか良くならず精密検査を受けることに。そして出てきた診断結果は、ガンでした。
努力は必ず誰かが見ていてくれる。それを感じた送別のとき。
幸いに発見が早かったことから、治療が可能。手術を実施した後、投薬や放射線治療が始まりました。すると、体に常にだるさがつきまとうように。警備の仕事はやはり体力が必要なため、今後続けるのは難しいと考え、会社に事情を話して退職することにしました。
そして、退職が近づいたある日のこと。顔見知りのテナントの方に呼び止められました。すると、送別の言葉とともに、寄せ書きをプレゼントいただいたのです。それも多くのテナントの方々が協力してくれており、150人近くのコメントがありました。
「いつも笑顔でありがとう」「おかげで雰囲気が良かったです」など、一人ひとりのねぎらいや感謝のコメントを見ていると、これまで自分がやっていたことは無駄ではなかった。誰かが認めてくれていたんだ。ということが実感でき、胸が熱くなりました。
その時感じたことは、「やっぱりこれからも働き続けていたい」ということ。しかし、体力的に無理はできない。そんなとき、中高年向けの求人サイトである「マイナビミドルシニア」を発見。利用するなかで、学校の用務員の仕事を見つけました。
これならば、体に大きな負担をかけず働けるのでは、と思い応募。面接の際には、自分の病歴を包み隠さず伝えました。「断られるかな」と思いましたが、無事合格。言いにくい内容を最初に伝えたからこそ、信頼を得ることができたのかと思っています。
これからは小学校の子どもたちに囲まれ、元気をもらいながら働いていこうと思っています。
まとめ:仕事探しをする人に伝えたいこと
改めてですが、中高年になってからの仕事探しは厳しいものです。自分の中で納得のいく書類を送っても、書類通過すらしない場合には心が折れそうになることも。でも、行動するしかないと思うんです。
誰だってこれまでの経験を活かせる仕事に就きたいと思うもの。だけど、これまでの経験は直接的な仕事ではなくても活かせるかもしれない。そんな気持ちを持って、新しいことにチャレンジしてみる。そういった積極的な行動が壁を壊すことにつながるのではないでしょうか。
病気になって改めて感じたことは、人生は一度きりだということ。安定ばかりを求めてしまうと、自分の可能性に蓋をしてしまうことにもなりかねません。新たな環境へ飛び込む勇気が、未来を切り拓くということを、この歳になって理解することができました。
そして、家族への感謝の気持ちを忘れないこと。我が家では私が転職を重ねているときも、妻がしっかりと家計を管理してくれたおかげで、4人の子どもが希望した進路に進むことができました。かつては、何も相談せずに退社を決めたことも。それを許容してくれた妻には感謝の気持ちでいっぱいです。
これからは少しゆとりを持ちながら働けるはず。これまで苦労をかけたことのお返しではないですが、家族で過ごす時間を大切にしていきたいと思っています。
※年齢は2019年3月取材当時のものです