人生はマルチステージ。定年後の羅針盤は「違和感」と「好奇心」が教えてくれる|人生100年時代のライフシフト
- 100年時代のライフデザイン
- 公開日:2026年10月 7日
54歳での入院をきっかけに「定年後の自分」と向き合い始めた三分一秀人さん。大手薬品メーカーで世界50カ国以上を相手に活躍した後、定年後はコンサルタントとして独立し、61歳からは絵画にも本格挑戦しました。74歳となった今も、画家、英会話講師、ボランティアなど複数の活動に取り組みながら新たな目標へ進み続けています。好奇心を原動力に、自分らしい人生を切り拓く秘訣を伺いました。
PROFILE
三分一 秀人(さんぶいち ひでと)
1952年、島根県生まれ。鳥取大学農学部を卒業後、大手薬品メーカーに入社。農薬の開発から営業までの最前線で世界を駆け巡り、M&A以後の転籍会社等でも要職を歴任する。定年退職後は、ビジネスコンサルタントとして数々の企業の新規事業を成功に導く傍ら、61歳で絵画を本格的に学び始め、画家「歩一秀(ぶいち しゅう)」としても活動。さらに英会話講師やボランティアなど、いくつもの顔を持つマルチステージな人生を現在進行形で切り拓いている。
予定調和を捨てろ、流されるな!私の人生を決めたた「古びたノート」の違和感
振り返れば、私の人生の転機はいつも「流される中での小さな違和感」から始まっていました。生まれは島根県で、小学校高学年の頃に山口県岩国市に移り住みました。当時は家庭の事情もあり、高校を出たらそのまま就職するのだろうとぼんやり考えていました。
進学校である岩国高校に進んだのも、大学の農学部を選択したのも、実は深い理由があったわけではなく、流されるままの選択でした。卒業後は地元で堅実な道を選ぶものだと思い込んでいたのです。
そんな私の意識が少しずつ変わり始めたのは、大学2年の終わり頃でした。専門の授業で教授が使っていたのが、何年も変わることなく使われ続けている"古びたノート"だったのです。それを見た私は「このまま、流されるままに、学びを受け入れるだけで本当に大丈夫だろうか」と感じました。
失礼な話ですが、その違和感が、初めて将来を真剣に考えるきっかけになりました。20年後の日本はどうなっているのか、出した答えは「国際化」。ならばまずは英会話だ、と考えました。そこで思い立って独学で勉強を始め、大学の英会話クラブの門を叩きました。
学生生活で忘れられないのが、来日間もないカナダ人の先生の自宅で開かれていた集まりです。先生の話の内容は、日本への誤解による批判でした。対して、同席する教授も学生も誰も反論しません。たまらず最も拙い英語しか話せない私が、頑張って反論を試みました。それをキッカケに先輩のサポートも入り、カナダ人教師の日本への理解は少なからず深まったと思います。
この経験が、今も私の判断基準としている「おかしいと思ったことは声に出す」「誰が言ったかではなく、何を言ったかを大切にする」につながりました。このスタンスは、その後の私のビジネスパーソンとしての原点になったように思います。
就職活動において、「英語を活かせる仕事を」程度にしか考えていなかった私は、自分の意思というよりは、大学の教授からの勧めがきっかけで大手薬品メーカーの農薬事業部へ進むことになりました。
動機不十分で決めた就職、入社当時は3年くらいは恩師の顔を立てて我慢するかという程度の気持ちでした。しかし、その我慢の3年のなかで徐々に現場の面白さに目覚め、私の世界は一気にグローバルへと広がっていくことになったのです。
地球儀を相手に修羅場を越えろ!「本当に大切なのは"何"か?」で貫いたビジネスの流儀
入社後は、海外市場の開発をミッションに世界を駆け回る日々が始まりました。配属されたのは上司と私が主たるメンバーの小さな組織。市場調査から開発、登録、普及、営業まで、農薬の海外展開のすべてを自分で動かせるのです。
担当したのは、優秀な商社及び現地の販売代理店と協力して登録を取り、市場を作っていく仕事でした。若くして責任ある現場を任されるようになった私は、様々なプロジェクトに向き合う中で、徐々に自分なりに仕事の流儀を確立していきました。
大事にしたのは「本当に大切にすべきことは何か」を突き詰める仕事をすることでした。それが責任ある仕事を任された私の流儀でした。その後も、合弁会社での要職への就任や、上海での駐在、さらには他社での海外営業部の立ち上げなど、50カ国を超える国々を相手にビジネスを展開してきました。
新しい市場を開拓し、現地のパートナーと信頼関係を築き上げる。文字通り寝食を忘れて働き、気づけば私のキャリアはグローバルな仕事の足跡で埋め尽くされていきました。ビジネスにおける私の信条は、「商品は自己紹介ができない、だからこそ担当者がどう語るかだ」ということです。
優れた商品であっても、それを扱う人間が信頼されなければ意味がありません。理屈や表面上の取り繕いではなく、相手と本気で向き合い、責任を背負う覚悟を持つこと。それが、数々のタフな交渉を乗り越えられた理由だと思っています。
54歳の入院カルテが告げた未来。会社にしがみつかない男の「自分という看板」への準備
順風満帆に見えたキャリアの裏で、体は確実に「黄」サインを出していました。54歳のとき、前立腺の手術を経験したのです。17日間に及ぶ入院生活とリハビリ。病院のベッドの上で天井を見つめながら、私は初めて「定年退職したあと、自分は何をして生きるのか?」という現実的な問いと真剣に向き合いました。
当時の会社には「役職定年」という仕組みがあり、年齢とともに第一線から退いていく現実がありました。私はその現実を前に「会社にしがみつくだけの人生はいやだ。自分の足で立ち、社会と繋がり続けられる準備を始めなければならない」と強く決意したのです。
この入院こそが、私の第二の人生に向けた最大の転機となりました。退職の何年も前から、名刺の整理や人脈の棚卸しを始め、定年後に向けたコンサルタントとしての独立準備を着々と進めました。会社という看板がなくなっても、自分という個人の価値で勝負できる軸を持つこと。この早期の心構えと具体的な準備が、定年後の不安を綺麗に消し去ってくれたのです。
マルチステージの処方箋。私の"これから"の背中を押した「金平糖」のメッセージ。
62歳で会社を退職した私は、その直後から個人事業主としてコンサルティングオフィス301を立ち上げました。長年培ってきた農業資材や海外展開の知見を武器に、数々の企業の新規事業をサポートする日々が始まりました。
そもそも、私の頭の中に「定年したらのんびり隠居する」という選択肢は微塵もありませんでした。なぜなら、私にとって暇こそが最大の敵だからです。人生100年時代と言われるなか、一つの肩書や一つの仕事だけに依存する生き方は面白くないと考えていました。
「出過ぎた杭は打たれない」という言葉があります。私は元々マルチの方が面白いと考えて生きてきました。「出過ぎた杭は多い方がいい」と、今でも考えています。
三井物産の元社長に関する書籍の「人間は金平糖のようなものだ。角を削るのではなく、角と角の間を埋めていけばいい」という言葉に深く共感しました。角を取らない方が、寧ろ人間は大きくなれる。私の"これから"の背中を押してくれる大切な言葉となりました。
定年後、私はコンサルタント業を主軸に置きながら、次々と新しいステージへ足を踏み入れていきました。目黒区のボランティア活動への参加、日本語教師養成講座での学び直し,そしてシニア向けの英会話講師としての挑戦。どれも「面白そう」「やってみたい」という純粋な好奇心が原動力でした。
「画家見習い」の看板を担ぐ企み。還暦からの筆が描く、人生の色彩マジック
そして、私の人生をさらに鮮やかに彩ることになったのが「絵画」との出会いです。 初めて絵画教室の門を叩いたのは、退職を間近に控えた61歳のときでした。還暦を過ぎての未経験の挑戦です。不安がなかったわけではありません。
デッサンの経験もなく、周りは私よりずっと若い生徒さんばかりでした。それでも、子どもの頃から図画工作が好きで、会社では写真班にも数年間在籍し、海外出張でも時間があれば有名な美術館を訪れていました。「好き」という気持ちだけは、ずっと持ち続けていたのです。
「うまくなるかどうか」より先に、「やってみたい」が勝ったのだと思います。月1回の1、2時間。それくらいなら、仕事をしながらでも続けられる。最初の一歩は、それだけの小さなものでした。最初は基礎からデッサンを学び、試行錯誤を重ねました。
絵の世界では「こう描くべき」という常識がありましたが、ここでも、私はあえて自分のこだわりを貫きました。例えば、紙の白さを最大限に活かすために、極めて硬い鉛筆で紙面に微細な傷をつけて白を残すという独自のスタイルに行き着きました。ありがたかったのは、先生が私のやり方を否定しなかったことです。基礎はきちんと教えたうえで、自由に描かせてくれました。
ここで私の、ちょっとした悪だくみが顔を出します。まだ腕前もままならない時期から、「画家見習い」の特製名刺をこっそり作って持ち歩いていたのです。「いつかこれで世間をあっと言わせるんだ」という、ちょっとした遊び心ですね。
修行を始めてから9年、69歳のときに、自分でも「これはいけるかもしれない」と思える作品がようやく描けました。それは、雪の降る冬の風景に女優の吉永小百合さんを描いた作品です。硬い鉛筆で残した紙の白が、雪の白として生きたのです。
2022年1月6日は東京に雪が降った日でした。銀座の教室で開かれた生徒の作品展に、先生に見てもらおうと6枚の作品を持って行きました。すると先生に「これは、私には描けません」という言葉をいただきました。その言葉を聞いて、先生が描けないというのなら、私はプロを名乗ってもいいのではないか、と思ったのです。
掲げた雅号は「歩一秀(ぶいち しゅう)」。本名の「三分一(さんぶいち)」から文字をもじったこの洒落た名前で、私は本格的に画家としての道を歩み始めました。
「75歳までに10回」――私が個展という"締め切り"を自分に課した理由
画家になった私が、自分に課した目標があります。「75歳までに、個展を10回開く」ということです。なぜ個展だったのかというと、絵は描いているだけなら、いつまでも「趣味」で終わります。けれど、個展を開くとなれば、日程が決まり、会場が決まり、作品を仕上げる期限ができます。
人に見ていただくのですから、恥ずかしいものは出せません。その緊張感こそが、私を前に進めてくれると思ったのです。暇が苦手な私にとって、個展は自分を退屈させないための仕掛けでもありました。
2022年4月、縁あってスタートした清澄白河の古民家喫茶での初個展から、銀座、新宿、西新宿と場所を変えながら、これまでに8回を数えました。2026年12月に第9回、来年4月にいよいよ、第10回を予定しています。
数えてみると、不思議な気持ちになります。10回という数字は、最初は途方もない目標に思えました。61歳で絵筆を持ったころの私に、「あなたは75歳までに10回の個展を開くよ」と言っても、笑って信じなかったでしょう。それが今、あと2回のところまで来ました。
こみ上げてくるのは感謝です。作品を見に来てくださる方、絵を買ってくださる方、支えてくれる先生や家族。そして何より、61歳の私が、勇気を出して教室のドアを開けたこと。あの一歩がなければ、今日の景色は見られませんでした。
現在74歳。好奇心のアクセルを踏み続ける、「おまけにもらった人生」の走り方
人生設計を立てるのが好きで、以前から「75歳で一度死ぬ」というストーリーを決めています。もちろん本当に死ぬわけではありません。2027年5月17日に迎える75歳の誕生日で、これまで思い描いた人生は、一旦リセットします。個展10回という目標も、ちょうどそこで達成を迎えます。
それ以降は「もらった人生」として、ゼロから新しいことに挑戦するつもりです。すでにいくつか、新しい種をまき始めています。一つは、「食と農」の未来に関わる、大きなプロジェクトです。私の専門分野でもある農業に、新しい風を吹き込む取り組みで、これまでの経験を活かせるかもしれないと思っています。
もう一つは、日本の伝統工芸を次の世代につなぐお手伝いです。私が心惹かれた陶芸家がいて、そのブランディングを支えたいと考えています。お金のためではなく、「面白そうだ」「役に立てるかもしれない」という気持ちで動いています。
どちらも、まだ話がまとまったわけではありません。詳しいことをお話しできる段階でもありません。ただ、これは自分でも不思議なのですが、どちらも偶然の出会いから始まっています。人との縁に導かれて、気づけば新しい扉の前に立っている。これまでの人生もそうでした。
今、私はワクワクしています。農業分野の専門家として、コンサルタントとして、英会話の講師として、そして画家として。今後の人生で、更に四本目、五本目の杭を、どんな形で立てて行こうか。74歳になっても、いや、74歳だからこそ、未来を考えるのが楽しくて仕方ありません。
定年を迎える前に、夫婦で約束したことがあります。「定年後は夫婦共に"4分割した時間"を共に大切にして過ごすこと」でした。一つは夫婦で共にする時間。二つ目は夫婦各々個々で過ごす時間。3つ目は夫婦各々が友達と過ごす時間。最後は友達夫婦と夫婦同士で過ごす時間です。
この約束を夫婦共に大切にしてきたことが、我が家の円満の秘訣です。何より、好奇心の赴くがままに歩みを止めない私を静かに見守り続けてくれる妻の存在は本当にありがたいと思っています。夫婦で共にする時間、次の「旅の計画」を二人で立てること楽しみですね。