50代男性 介護職への転職体験談 | 営業へのこだわりを捨て、介護の仕事を選択した理由とは
- 自分の相場を知る
- 公開日:2019年9月13日
フルタイムで働く奥様と二人暮らしの三森さん(仮名)54歳。新卒で入社した会社から20年以上営業畑で経歴を積んできましたが、50歳を目前でフルタイムの仕事からリタイヤ。アルバイトの掛け持ちを経た後、介護の仕事に腰を落ち着けることを決めました。これまでの経歴についてお話を伺いました。
バブル期に大学を卒業。証券会社へ。会社の姿勢に共感できず退職を選ぶ
出身は広島県。大学までを中国地方で過ごしました。当時はバブル期のため、就職先は豊富。複数の会社から内定をいただいた結果、当時の花形業種であった証券会社に入社を決めました。
しかし、仕事は泥臭いもの。個人への証券営業だったため、毎日100件近くの個人宅へ訪問するも、インターホンにも出てもくれず、入社半年ほどはまったく数字も上がりませんでした。
ゴミ出しの朝時間を狙って訪問するなど工夫を重ねたところ、徐々に顧客が増えるように。「お客様も自社も儲かるように」と必死で商品知識を学んだところ、可愛がってくれる顧客も増え、他のお客様を紹介してくれるなどもあり、順調に売上が獲得できるように。気づくと、全国上位の成績を取ることもできました。
そうして、本店営業部に抜擢。その時は「出世コースに選ばれた」という実感もありましたね。
しかし、本店で気づいたことは「会社は自社の売上しか考えていない」ということ。しかし、自分は顧客と自社がwin-winとなることの提案しかしたくない。そういった思いを上層部に伝えましたが、取り付く島もなし。納得できず、その場で「辞めます」と告げました。
今となっては我慢のしようもあったかな、と思いますが、「自分ならどこでも営業で数字を残せる」という自信もあり、勢いに任せて退職を決めたのです。入社して9年ほど経った頃でした。
営業という軸で、複数の会社に在籍。退職という選択を躊躇しなかった。
証券会社を退職してからは、メーカーに3年。人材系会社へ4年。人材紹介会社に6年在籍しました。いずれも営業職。それぞれの会社では管理職も勤め、一定の数字も上げていました。
各社を退職した理由は、上司との折り合いが悪かったこと、会社の方針よりも自分のやりたいことを優先したこと、社内派閥争いに巻き込まれたことなど、様々でした。
しかし、まだ若かったことや、「営業でならば数字は作れる」という自信がありました。そのため、会社の方針と自分の思いが食い違ったときは自分の思いを優先し、退職という選択肢を躊躇していませんでした。
子どもがいない夫婦共働きということから、経済的な不安も感じていなかったこともその一因でしたね。
4社目となる人材紹介会社を退職することを決めたとき、生命保険会社からスカウトを受けました。生命保険の営業には、最初に勤めた証券会社のように「お客様のメリットよりも、自社の売上が要求される」という先入観から、敬遠意識がありました。
しかし、法人営業を主とする条件が提示されたこともあり、転職を決めました。その時45歳。これが最期の転職となればよいな、という思いもありましたね。
働きやすさを感じた職場ながらも、体調を崩し退職を選ぶ
そうして入社した生命保険会社。法人に対しては、生命保険を活用した福利厚生や退職金の提案を。経営者に対しては、節税対策としての経営者保険や生前贈与対策などを提案。基本的に「自分が良いと思える商品」を販売していました。
もちろん、会社からは特定の商品を販売するように、というお達しはありましたが、全体の数字さえ上げていれば、それなりに自分のやり方で活動して問題なし。そのため、気持ち面で働きやすさを感じていましたね。
しかし、保険の営業は会社に属しているとはいえ、ほぼ個人事業主のようなもの。お客様の都合に合わせて毎日のスケジュールを調整していたため、土日も関係なく働き続け、毎日が不規則な生活でした。
そうした生活を長年してきたツケのためか、50歳を目前とした頃に体調を崩したのです。体重が急激に増加。内蔵や関節、体の至るところに不調が現れました。
無理を重ねて働き続けましたが、徐々に悪化し無視することができない状態に。治療に専念するために、やむを得ず退職を選びました。
夜勤アルバイト掛け持ち生活が軌道に乗るも、まさかの事態が
治療のため退職しましたが、生活費を稼ぐことは必要です。これまでの仕事探しでは、自分のやりたいことを優先ばかりしてきましたが、今度ばかりは治療が優先。これまでと全く異なる状況できめた仕事探しの軸は、「適度に体を使う仕事」「治療の時間を確保できる仕事」「月30万程度を稼げる仕事」という3つでした。
すべての条件を備えた正社員の仕事が見つかればベストとは思っていましたが、この年令では経験のある営業職以外では難しい。だけど、営業職を選べば不規則なため治療の時間が確保できない。
そのため、夜勤のアルバイトを二つ掛け持ちすることを選択。夜は割増がつくため稼ぎもよい。更に、昼間の時間を治療にあてることもできる。一石二鳥でした。
そうして始めたのが、レンタカー会社での夜間の回送や洗車業務。それと、コンビニでの夜間のバイトでした。この二つを掛け持ちすることで、仕事探しの軸はすべてクリア。治療も進めることができ、徐々に体調も回復してきました。
そんな頃、妻の母に認知症の傾向が現れ、介護が必要な状況となりました。自宅からほど近い距離に住んでいたことから、フルタイムで働く妻よりも時間のある自分が介護で訪問するように。
「介護もでき、最低限の収入も確保できる。この状況は悪くないかも」と考えるように。勤めていたコンビニは医薬品を扱っているため、登録販売者資格の需要がありました。それなら資格を取得し、待遇を上げてもらい、コンビニ一本で食べていこうかな。そんな希望を持つようになりました。
そんな頃にオーナーから面談がしたい、と。資格の件を伝えようと思ったのも束の間、伝えられたのは「店を閉めるので、申し訳ないが辞めてもらいたい」という内容でした。頭が真っ白になりましたね。
応募したのに返事もない。50代での転職の厳しさを味わう
こうして、53歳にして再度転職活動に取り組むことに。
状況が噛み合えばよいけれど、やはり非正規雇用を生活の糧の基盤に置くのは不安定。そのため、応募は正社員に絞り、経験のある営業を中心に幅広くエントリーしました。
活動を始める前は、正直「50代にはなったけど、自分なら大丈夫」、そんな思いを持っていました。世の中は人手不足だし、営業としての実績は十分にある。
しかし、何社応募しても通らないんです。返事すら返ってこないありさま。自分が考えていたよりも、年齢と7年近く正社員として働いていなかったブランクの期間がネガティブに捉えられる、中高年転職の現実を理解しました。
これまで積み重ねてきた自分の経験やスキル。応募した企業はそれらに何の価値も見いださないのか。そう考えると虚しさ、そして徒労感が襲ってきました。
そんなときは妻と話をよくしました。「こういう企業なら経験が評価されるのでは」「書類はこんな感じで書いてみたらどうか」など、話すことで頭がまとまっていき、明日への活力が湧いてくる。相談相手がいるということは大切なのだな、と改めて感じましたね。
袋小路に入ってしまった自分を客観的に見つめ、それを伝え、そして励ましてくれる。支えてくれる家族のありがたみを感じました。
「人と社会の役に立ちたい」という思いが高まり、介護の仕事を選択
転職活動を行った3ヶ月間で合計70社へ応募。面接に進めたのは10社のみ。そして最終的に内定がもらえたのは4社でした。
内定した中には、モノやサービスを販売する営業の経験が直接的に活かせる家電量販店の販売員などの仕事もありました。しかし、私が選んだ仕事は「介護施設の職員」でした。
家族の世話を通じて介護に触れ、大切な仕事であることを認識する反面、大変さも理解していました。そのため、転職活動当初は介護の仕事に就こうという気はありませんでした。
しかし、自分が何をしたいのかを改めて考えたところ、「人の役に立ちたい」「社会の役に立ちたい」という思いが強まっていることに気づきました。
それは、仕事が決まらないためなのか、年齢による心境の変化のせいなのか、自分でも説明が難しいのですが、とにかくそういう理由です。そうして他でもらった内定を断り、介護の仕事をすることに決めたのです。
これまでの職場を短い期間で退職してきたことを後悔するわけではありませんが、今思うともう少し我慢のしようがあったかな、とも思います。そう思わせるほどに、歳を重ねてからの転職はしんどいです。
早い時点で家計を含めた家族のライフプランの計画を立てておくこと。それを家族と話し合っておく。そうした計画の延長線上に転職があるのはよいですが、無計画な転職はオススメはできませんね。
とはいえ、人生で起きることすべてをコントロールなどできません。ならば、目の前の状況をしっかりと受け止めて、前を向き、ポジティブな思いを持ちながら暮らしていくのが、自分のできることかなと思っています。
まとめ
紆余曲折の結果、就いた介護の仕事。入社を決める前に、介護の専門家と話す機会が。その時「介護は誰でもできる仕事のように思われているけれど、本当のプロは一握りしかいない。介護の世界に身を投じるのならば、プロを目指してほしい。そうして腕を磨けば、自分の市場価値も上がり待遇もついてくる」というアドバイスをいただきました。
今、介護の職場で研修を受けていますが、覚えることが山ほどあります。三年間はひたすら頑張り、まずは「介護福祉士」の資格を取得、その後も腕を磨いて、プロと呼ばれる介護士を目指そうと思っています。
※年齢は2019年8月取材当時のものです