【Well-Passインタビュー】周りも尊重できる人生に。導かれるように軽やかに生きる

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【Well-Passインタビュー】周りも尊重できる人生に。導かれるように軽やかに生きる

今回は、東京都在住の中野真貴子さん(56)にこれまでのキャリアを振り返っていただきながら、現在のお仕事や今後のビジネスにおける展望などをお聴きしました。中野さんからはパワー漲る言葉が数々と飛び出し、自分だけでなく周りの方の人生も尊重できる生き方を教わりました。

この記事の目次

    広い世界が見たいと東京に就職を決める!

    秋田県で生まれた私は、幼い頃から好奇心旺盛な性格。ずっと地元で過ごすということは考えられませんでした。大学は地元を離れると決め、幼児教育を学ぶために東京の短大に進学しました。

    就活では日本経済がバブル期だったこともあり、銀行や広告代理店、出版社など業界を絞らず、興味がある分野の会社を受けていました。親は先生になることを条件に東京に出してくれたのですが、一度きりの自分の人生です。援助は一切うけず独立すると宣言し、自分の考えで決断しました。

    就職活動をするうち、ご縁をいただいた中で入社を決めたのは株式会社リクルート。1988年に入社し、その直後にリクルート事件が起こりました。在籍していた管理部門の人為削減、営業現場への応援派遣として、就職情報誌の営業に異動となりました。

    予想外の人事異動に、思うように仕事に打ち込めず、当時の上司からは「与えられた環境を活かすか否かはお前次第」と言われ、割り切れない気持ちから、やれることはやってみようと、チャレンジする気持ちが整いました。社会人として組織で働く、オトナとして何が大切か、どのようにしたら人を動かすことができるかなど、数え出したらキリがないほど様々な手ほどきをいただきました。

    後に、日本社会経済はバブルの崩壊を迎えます。景気は落ち込み、求人系の売上は右肩下がりに。人員配置を含め、就職情報誌事業そのものの在り方を再構築する過程で多くの人材が他事業に異動になりました。私は住宅情報誌の制作を扱う部署に移りましたが、なんだか性に合わなかったですね。物件情報を見やすく制作するよりも、人と対話しているのが好きなのかもしれません。

    翌年、私の性格を見抜いた上司が営業担当にしてくださいました。またその翌年、社内広報に異動。多くの社員に会い、その人柄などを記事にし、会社の「いま」を伝える社内報の編集に携わることになりました。ここでは、これまでの営業、制作の仕事を通じて学んで来たことをフル活用し、退職するまでの4年間を過ごしました。

    長期に渡り同じ会社に勤めていると、会社のことを多く知れるようになりました。その間に、結婚と出産を経験。1人目の息子ができても実母に育児を頼りながら、時短勤務をせずフルタイムで働きました。

    社内でも時短勤務などの子育て支援制度はありましたが、まだ始まったばかりということもあり、周りの先輩ママたちの仕事ぶりを見ていても、やはり周りに迷惑を掛けざるを得ない瞬間があることをわかっていましたから、自分にはそれはできないだろうなと思ったんです。

    3年後に2人目ができた時、当時の上司から二人育てながら働くのは大変ではないか?という問いに、自問自答。夫や母と相談し、今しか見られない子どもの成長を見ると決め、退職を決断しました。辞める直前までキャリアを捨てるのが怖かったですね。仕事が好きで、できることも増えていた矢先だったので、悔しくもありました。

    専業主婦として子育てに携わるうち、何ができるだろかと考える日々

    退社後は専業主婦としておよそ12年を過ごしました。
    主婦業をしながらもう一度働きたいという思いは常にありました。でも、下の子が中学に入るまでは、と思っていたんです。私自身、短大で幼児教育を学んでいたこともあり、子どもたちとは母親としてなるべく多くの時間を過ごしたい気持ちも強くありました。

    そんなタイミングで夫に転勤の内示が出て、家族全員で北海道へ。しかし、北海道に行ってからは周りに知り合いや友人がいない環境だったこともあり、ふさぎ込むことも増えてしまったんです。

    子どもたちは朝早く家を出てしまうし、夫も仕事で夜遅くに帰宅するので、話し相手がいないなと孤独を感じました。気を紛らわすために韓流ドラマを観るのですが、そうすると今度は家事を怠っているように思えてどうしようもない自己嫌悪に陥るんです。本当に苦しかったですね。ただ、子どもたちが溌剌と過ごしてくれている姿を見て、それだけが救いでした。

    私のキャリアって、なんだろう......。そう思うことが多々ありました。会社組織でのキャリアが断たれたあと、新たに何かを身につけなければならない、そんな焦燥感がありました。

    実際に子育をしてる中で、学んだ幼児教育がとても役にたちました。また、小学校受験を通じて得た経験は、子育てを体系化し学び多いものでした。この経験から幼児教育を改めて深く追求できないかと思い、本を読んだり、ネットでセミナーを探して参加したりと、少しずつ自分がやれることを模索し始めました。

    そして、北海道で過ごす最後の1年はママ友たちとの交流も活発になり、ふさぎ込んでいた気分も徐々に明るくなりました。そんなときに夫が東京へと戻ることが決まりました。

    東京に戻り、再び社会に復帰。自分が貢献できることを問う日々

    東京に戻ることが決まったと元上司に伝えると、リクルートキャリアで秘書兼総務人事として働かないかとお声掛けいただきました。その仕事で2年半が過ぎた頃、そろそろ年齢も50歳近くなったときのことです。このまま会社組織でいつまで働くのだろう、そう思うようになりました。生涯、細々でも続けられる仕事を見つけたい。そう思い、退社を決意しました。

    電車に乗らずにマイペースで仕事ができたらいいと、家の近所のパートを探していたところ、レッジョ・エミリア教育(※1)を主力においた保育園ができることを知りました。採用されるか、年齢的に不安でしたが、「スターティングメンバーとして保護者目線で携わってほしい」と、子育ての経験を評価していただき、無事に採用していただきました。

    私自身が会社員も母親も、どちらも濃密に過ごしてきたので、親御さんの力になりたいという思いが伝わったのもあると思います。親御さんには子育てでキャリアを諦めないで欲しいという思いも強くありました。

    その保育園に立ち上げの準備から入り、2年半勤めました。資格を持っていなかったので、まずは保育補助から始めましたがそれはそれは大変で。子どもの面倒というよりは雑用が主なお仕事で、もっと子どもたちと触れ合えるような働きがしたいと思い、1年で保育の資格を取得しました。私の場合、短大で幼児教育を学んでいたこと、実際の子育てを経験していたことも学びに直結していたので、知識習得が早く行えたと思っています。

    資格を取ってからは子どもと触れ合う仕事の機会も増えましたが、このまま保育園で働き続けることにも疑問を感じていました。社員になってローテーションに組み込まれるのもちょっと...と感じていましたし、当時の園長先生とも積み上げてきたキャリアの違いから価値観が合わないところもありました。

    ※1:100人の子どもがいれば、それぞれ100通りの可能性があるという思想の下、アート保育やドキュメンテーションなど、子どもたちの主体性を大切にしたイタリアの教育メソッド

    夫と私。それぞれ生き方が違う、新しい夫婦のカタチ

    保育園で働き出した頃、夫が会社を辞めたいと。順風満帆に社会人生活を送ってきたものの、夫も私と同様に、この先このまま会社組織で働くのがいいか、考え始めていました。「辞めてもいいけれど、今の生活水準は保って欲しい」と話し、自分のやりたいことが決まるまでは、焦らずに考えて欲しいと伝えました。

    六次産業に興味があり、農業、漁業など、就労体験を通じて夫なりにさまざまリサーチしていました。そして、次男の大学進学が決まる頃。漁師になることにしたと...そうきたか......。覚悟はしていたものの、漁師には驚きました。

    次男が大学に入学したら、夫は漁師として転居することになり、私はずっとしたかった海外留学に先に行かせてもらいました。ここから私たち夫婦はお互いの道を歩み始めたのです。

    結果、夫は底引き網漁の漁師として宮崎県で活躍しています。漁港に卸すことをメインに、通信販売で地場の魚を直送するなど販路も広げています。食べやすいように捌いたり、骨を取ったりしてから出荷するのでこれが便利でおいしいと人気に。本人も楽しんで仕事をしていますね。

    このように、夫婦でもお互いにやりたいことをやっていくというのもいい形なのかなと感じています。周りでも、やりたいことがあるのに勇気が出せずパートナーに言えないという話を聞きますが、まずは相談してみればいいのかなと思いますよ。私たち夫婦もお金のこと、これからのこと、沢山話し合っての今があります。

    一緒に生きていくって、どんな形でもお互いが納得していればいいのではないでしょうか。それぞれの生き方やライフシフトが尊重される夫婦の関係があれば、人生100年時代も楽しんで生きていけるのではないかと思うんです。

    旅行に行くときも普段一緒に生活していない分、新鮮な気持ちで出掛けられています。旅行が終わったら「バイバーイ」ってそれぞれの生活に戻っていくんです。周りからは離れていて大丈夫なの? って聞かれることもありますけど、仲はいいと思いますよ。

    距離感の大切さを感じながら相手への感謝も忘れずに、これからもこのライフスタイルを楽しんでいこうと思います。息子たちにも言っていることなんですが、どんな方と結婚するのも自由だけど、お互いやりたいようにしたいなら話し合える関係でいなさいと。

    新たな一歩。シッターとしてのキャリアをスタート!

    一方、私のライフシフトのお話ですが、マルタ島での留学がいい気分転換になりました。
    語学の習得は難しい場面もありましたが、充実した日々でしたね。自由な思想があるなと感じられたのも良かったと思います。向こうは型がないので、自己主張をする大切さも学びました。宿題なんて何年ぶりだろうと、そんな経験もできました。

    留学からの帰国後は、日本に住む外国人向けのシッターサイトを見つけてすぐに登録をしました。それに、海外生活が長い友人がマンツーマンでの保育はどう?(欧州では幼児の家庭教師、兼家庭支援をするナニーさんがいると)と提案してくれたのも大きくありました。

    日本で生活する不安もあると思うので、そういった不安にも寄り添いながら子育てのお手伝いができたらと考えたのです。
    すぐにフランス人の方からご縁をいただき、ありがたいことに気づけばもうフリーランスのシッターになって4年が経ちました。

    内容としては週2・3回、子どもの保育園のお迎えに行き、レッジョ・エミリア教育から引用した、お絵かき、工作などをします。夕飯のおかずは1品を作る過程で、使っているお野菜はどのように育っているかなどを事前に学び、包丁の使い方なども教えて、できる範囲で一緒に行います。

    パパは時間に融通が利く分、家族のご飯を作ることも多くあります。なので、日本料理をお子さんと一緒に作ってご紹介することもあり、これまでに手巻き寿司やからあげなどを伝授しました。フランスのご家庭を見ると、パパが協力的かなと思います。このように異文化のことも学びながらお仕事をしています。

    子どもは無償で私たち親を愛してくれる存在だなと、母親にならなければわからなかったことを学ばせてもらいました。それは、仕事やキャリアをいくら積んでも代えがたいことだなと。そういう思いになれてからはキャリアを捨てたことに後ろ髪を引かれていた私も、母親こそ大事な仕事なんだと思えるようになりました。

    働きながら子育てをしているお母さんは、本当に尊敬します。子どものことが優先になるので、自分の時間なんて全然取れないですよね。そういったご家庭に対し、シッターという形でこれからも携わり、お手伝いできたらと思っています。

    これからのキャリアの可能性

    一人で子育てしているお母さんたちってコニュニティがないと辛いなと、北海道の転勤で身に染みて感じました。そして、それは老後にも通じることだと思います。よく、仕事人間だった人が定年後にやることがなくて孤独だと言いますけど、本当にそう。どこかのコミュニティに属していて一緒に笑い合える人がいるって、人間生活にとって欠かせないことです。

    ただ、働くということは一つのコミュニティに属することになるわけですが、価値観の違う人たちと歩調を合わせることが実に大変です。私も保育園時代には、職場の方との価値観の違いに苦労しましたしね。働いていているとその世界だけしかないと勘違いしてしまいがちですが、世界はもっと広いと思います。

    そして、私はもっと子どもたちと、そのお子さんを一生懸命育てていらっしゃる親御さんとじっくり向き合いご家庭の支援をしたいと思いシッターに転向しました。

    今後は、マッチングで急な保育を受けるシッターだけではなく、家庭教師のように日本でも広められたらいいなと思っています。ちょっとした不安をいつでもぶつけられて、それなりの解決策も提示され安心が得られる。一家に一人いるといいと思いませんか?

    そんな中、嬉しいお話をいただきまして。
    夫がアメフトチームにいた関係で今でも若い世代の選手たちともお付き合いがあるんです。そこでコーチ、選手のお子さんを預かる仕組みを作れないかと相談があり、現在実現に向けて準備をしています。

    男女平等という言葉には、しっかりと互いの自由な時間も含まれると思います。お母さんたちだって子育てを離れて自由な時間を満喫したいときはもちろんありますよね。もちろんお父さんだって、趣味の時間が欲しかったりする。心が満たされる時間があれば、お互いに優しくなれると思うのです。

    そういった需要に応えられるように、構想を練っています。子どもにとっても、そこに行けば違う年齢の子もいたりして様々なことを学べるコミュニティがあったら、なんだか楽しいとは思いませんか? そういう場所を作っていきたいなと。

    とにかく人生は、止まっていたら勿体ないと思います。怖がらなくていいですよ、と同世代や諸先輩方にも伝えたいです。よくアグレッシブですね、前向きですね、と周りから言われる私も考え出したら不安なことは沢山あります。しかし、何もしないということは、何も産まないということ。私の場合、止まっていることが逆に怖くなってしまうのです。

    一歩を踏み出し挑戦してみないとわからないことや、踏み出したことで挫折することも、もちろんあります。でも、その道が違ったらまた別の道に向かう、動くことでエネルギーが回る、そうやって沢山のご縁がもたらされるなと。私自身の人生は、それを繰り返しての今があります。

    ですから、迷っている方がいるのならぜひ、一歩踏み出してみてください。もし、今人生が味気ないな、と感じている方はまずは、インターネット検索からはじめてみてもいいかもしれません。その向こうには、自分の知らない世界が沢山広がっています。そうして少しずつ行動しているうちに5年後、10年後は自分では思いもよらなかった場所に辿り着いているかもしれませんよ。

    まとめ

    中野さんから放たれる言葉はとても力強く、ご自身の経験から働く親御さんの役に立ちたいとの熱い想いを聞かせていただきました。

    また、旦那さんのやりたいことを応援し、新しい夫婦のカタチを実践されている中野さんの度量の広さを同じ女性として身に着けていきたいなと感じた、今回の取材でした。

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